2013年07月26日
第13回 和醸良酒
今回も、“開かれた酒蔵”を紹介しましょう。
日本酒の造り酒屋は創業100年以上の歴史を持つ老舗が多く、地域の暮らしの移り変わりとともに発展・継続してきました。島田市の大井神社東側にある大村屋酒造場は「若竹鬼ころし」「おんな泣かせ」で知られる銘醸。天保3年(1832)に創業し、東海道島田宿の蔵として発展し、島田市唯一の地酒の灯を守っています。それは、地域の人々に支えられ、灯された文化の光でもありました。

大村屋酒造場 外観
2011年3月に静岡県から発行された『文化支援活動レポート3・文化を支えるProject』で、私は大村屋酒造場が守ってきた“文化の光”について紹介しました。
レポートの発行時、東日本大震災が発生し、県内14団体、32ページに亘って取材した渾身のレポートを多くの人に紹介する機会を逸してしまいました。もとより、県内で文化支援政策にかかわる行政担当者や事業団体向けに作られたレポートで、一般の方の眼に留まる機会はほとんどありませんが、この場をお借りし、大村屋酒造場の記事の一部だけでも再掲させていただこうと思います。
「地域と共存共栄する酒蔵」を実践する。
地元の人々に“地酒の灯を消すな”と背を押され・・・
大村屋酒造場6代目当主・松永今朝二さんは昭和42年に入社し、義父で5代目当主松永始郎氏(故人)とともに伝統蔵の継承発展に努めてきた。
松永さんが入社した当時は、島田市に7軒の酒蔵があったが、地方の酒蔵経営が厳しくなり、島田市内でも廃業が相次ぐ。“最後の砦”となった松永さんを「最後の地酒の灯を消してくれるな」と激励したのは、島田市内の名士の集り「若竹会」だった。
この会で「慶長9年(1604)の大井川の氾濫で消滅した地酒・鬼ころしを復活させよう」と呼びかけ、今では蔵の看板銘柄である「若竹鬼ころし」が誕生。その5年後には、辛口の鬼ころしとは対照的にソフトでまろやかな「おんな泣かせ」が誕生した。粋な酒銘は、若竹会の宴席で島田の芸者さんのひと言だったという。これも静岡県を代表する人気銘柄に成長した。
音楽のまち島田をほうふつとさせる酒蔵コンサート
そんな経緯もあって、松永さんには地元島田への思いがひときわ強く、「地域の皆さんとともに共存共栄するのが地酒の使命」と明言する。
音楽好きの松永さんは10数年前、妻が師事するオルガンの先生に「蔵には独特の音響効果がある。何か演奏してみたら?」と勧められ、貯蔵タンクが並ぶ蔵で室内楽コンサートを企画した。100人が集まり、音楽ホールとはひと味違う、酒蔵に響くクラシックの音色を堪能した。
さらに「島田の七夕に賑わいを復活させたい」という町の声に応え、七夕の日に静岡大学のジャズバンドを招いて酒蔵コンサートを開催。蔵を開放し、生ライブを楽しんでもらった後は、樽詰めの生酒を無料でふるまった。

ステージ設営も七夕飾りもすべて社員の手作り。最近ではテノール歌手の加藤信行さん、中鉢聡さん、ザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団首席ホルン奏者シュヴァイガー氏といった ビッグネームもやってくる。松永さんの「出演料は出せないけど酒はたっぷり飲ませるよ」が口説き文句だといい、アーティスト自身も酒蔵の空間に魅力を感じ、手弁当で参加するという。
聴衆は年々増えて今では400人を超え、蔵の中に入りきれない人が路上で演奏に耳を傾けるということも。「島田市はもともと音楽好きの市民が多く、静岡市に市民会館が出来る前は、県下で唯一NHK交響楽団の演奏会が島田市民会館で開かれていた。音楽が身近にあった街なんです」と松永さん。今年(2011年)で14回目を数える七夕酒蔵コンサートは、島田市の夏の風物詩になった。

蔵に入りきれない聴衆
NY三ツ星フレンチレストランの地酒パーティーをきっかけに
松永さんは日本酒の蔵元として島田の食文化振興にも努めている。1999年、ニューヨークの三ツ星フレンチレストランで開かれた日本酒パーティーに招待されたとき、「若竹鬼ころし」がフレンチ料理と見事にマッチし、NYの食通たちに喜ばれる姿に感激する。NYナンバーワンの呼び声高いワインソムリエとシェフが事前に島田までやってきて蔵できき酒するなど準備も万全だった。「海外で島田の地酒がこれだけのもてなしを受けているのに、自分たちは地元では何もしていない」と実感した松永さんは、帰国後、蔵に隣接する大井神社宮美殿の調理長と協働で【島田の食と地酒を楽しむ会】を企画した。
翌年からは酒米作りで縁のある島田市初倉地区の農家、大井川奥のヤマメ養殖業者にも声を掛け、食事の合間に生産者の苦労話や地域の自然の価値などを解説してもらうなど、地産地消をテーマにした食文化の会に発展した。5000円のチケットは受付直後に定員満員となり、今では抽選制にせざるをえないほどの人気ぶりだ。
親子で体験学習、「お米とお酒の学校」開催
2005年からは親子対象の食育活動【お米とお酒の学校】を始めた。初倉の農家の協力で、5月に酒米の田植えをし、9月に稲刈り、3月に酒蔵工場見学を行う。子どもたちは田植えや稲刈り時に農家から米作りや田んぼの生態系などを聞き、バケツにひと株ずつ稲を持ち帰る。田んぼには自分の名前の立て札が立っているので、下校途中に様子を見に行くことも。田植えの日は午後、かかしづくりの体験。稲刈りの日は島田市金谷の伝統の志戸呂焼き工房で茶碗やぐい飲みづくりの体験。お酒が完成する3月にはオリジナルラベルをデザインして酒瓶に貼る。そんな稲作体験が、親子のコミュニケーションづくり、地域農業や酒造り・陶芸等のモノづくり文化を学ぶ好機にもつながっている。
酒蔵2階の文化発信基地「若竹サロン」
本社2階フロアは、貸しギャラリーとして市民に開放している。ここで2カ月に1度のペースで文化交流会「若竹サロン」を開催し、地元で活躍する学識経験者、経済人、文化人等を講師に招いてさまざまなトークときき酒を楽しんでもらう。蔵を支えてくれた「若竹会」の伝統がそこに息づいている。ギャラリーは、若い陶芸家や書家たちの作品発表の場にも活用している。
これら事業は参加者から費用をとらないか、必要最小限の実費しかとらず、企画や運営はすべて松永さんと社員でまかなっている。「スポンサーをつけたり補助金をもらったりすると、いろいろ制約が出てくるから」と苦笑いする松永さんだが、会社の“持ち出し分”は広報活動の範疇をゆうに超えている。その原動力は、数々の催しを通して、地域住民から寄せられる「自分たちが住む町に誇りが持てる、ぜひ続けてほしい」という声。「酒蔵が地域に存在する意義もそこにあります」と力を込める。
私は亡き5代目・松永始郎翁がお達者な頃から蔵へちょくちょくお邪魔しており、1997年の毎日新聞『しずおか酒と人』では、始郎さんと6代目今朝二さんの父子エピソードを紹介しました。自分でも特に気に入っている記事なので、ぜひご一読ください。
◆http://ginjyo-shizuoka.jp/suzuki_15.html

大村屋酒造場6代目・松永今朝二会長
現在、大村屋酒造場は今朝二さんの娘婿・孝廣さんが7代目をしっかり継承しています。県内の蔵元で3代に亘っておつきあいさせていただいているのは、今のところこの蔵だけでしょうか。今年7月7日の七夕酒蔵コンサートは、孝廣さんの企画でスイングジャズの演奏を楽しみました。クラシックが続いた今朝二さんの時代とはひと味違う、陽気でワクワクのノリが新鮮でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杜氏も世代交代しています。長年蔵を支えた歴代南部杜氏の薫陶を受けた社員の日比野哲さんが杜氏を継承しました。日比野さんは県内の蔵元では初めて、大学院の新卒入社で酒造り職人になった逸材です。日比野さんが醸した若竹純米大吟醸誉富士は、本コラム第9回「あまい金賞」(こちら)でも紹介したとおり、全国の舞台で、静岡県の酒の存在感を見事に示してくれました。
◆「あまい金賞」 http://sakazuki.eshizuoka.jp/e1070245.html
七夕酒蔵コンサートに集まった400人の市民に無料で振舞われた酒は、縁起のよい樽酒と、若い後継者を象徴するように新発売された誉富士60%精米の特別純米「鬼乙女」。ピンクボトルは春に発売された火入れバージョン、ブルーボトルは夏に発売する生酒バージョンです。この先、秋には冷やおろし、冬には新酒しぼりたてと、四季に合わせたバージョンで楽しませてくれます。

こんなふうに、松永孝廣さん、日比野哲さんと、外から入ってきた“新しい血”が、伝統蔵の活かし方をブレることなく前進させています。それは、ホテルマン出身の今朝二さんの“人間力”が、保守的な蔵の風土や、地域との関わり方・付き合い方に柔軟性を持たせた成果に相違ありません。酒造りの現場でも、職人同士のチームワークが大事であるように、一軒の酒蔵の暖簾を守っていくにも、血脈を超えた人と人の相互理解と結束力が必要なんですね。
七夕酒蔵コンサートを、社員総出で手作り準備し、継続させている大村屋酒造場には、理想の酒造りを示す「和醸良酒」という言葉がしっくりくるようです。地元に酒蔵があるっていいなあって、つくづく思います。
◆大村屋酒造場 公式サイト http://www.oomuraya.jp/
日本酒の造り酒屋は創業100年以上の歴史を持つ老舗が多く、地域の暮らしの移り変わりとともに発展・継続してきました。島田市の大井神社東側にある大村屋酒造場は「若竹鬼ころし」「おんな泣かせ」で知られる銘醸。天保3年(1832)に創業し、東海道島田宿の蔵として発展し、島田市唯一の地酒の灯を守っています。それは、地域の人々に支えられ、灯された文化の光でもありました。
大村屋酒造場 外観
2011年3月に静岡県から発行された『文化支援活動レポート3・文化を支えるProject』で、私は大村屋酒造場が守ってきた“文化の光”について紹介しました。
レポートの発行時、東日本大震災が発生し、県内14団体、32ページに亘って取材した渾身のレポートを多くの人に紹介する機会を逸してしまいました。もとより、県内で文化支援政策にかかわる行政担当者や事業団体向けに作られたレポートで、一般の方の眼に留まる機会はほとんどありませんが、この場をお借りし、大村屋酒造場の記事の一部だけでも再掲させていただこうと思います。
「地域と共存共栄する酒蔵」を実践する。
地元の人々に“地酒の灯を消すな”と背を押され・・・
大村屋酒造場6代目当主・松永今朝二さんは昭和42年に入社し、義父で5代目当主松永始郎氏(故人)とともに伝統蔵の継承発展に努めてきた。
松永さんが入社した当時は、島田市に7軒の酒蔵があったが、地方の酒蔵経営が厳しくなり、島田市内でも廃業が相次ぐ。“最後の砦”となった松永さんを「最後の地酒の灯を消してくれるな」と激励したのは、島田市内の名士の集り「若竹会」だった。
この会で「慶長9年(1604)の大井川の氾濫で消滅した地酒・鬼ころしを復活させよう」と呼びかけ、今では蔵の看板銘柄である「若竹鬼ころし」が誕生。その5年後には、辛口の鬼ころしとは対照的にソフトでまろやかな「おんな泣かせ」が誕生した。粋な酒銘は、若竹会の宴席で島田の芸者さんのひと言だったという。これも静岡県を代表する人気銘柄に成長した。
音楽のまち島田をほうふつとさせる酒蔵コンサート
そんな経緯もあって、松永さんには地元島田への思いがひときわ強く、「地域の皆さんとともに共存共栄するのが地酒の使命」と明言する。
音楽好きの松永さんは10数年前、妻が師事するオルガンの先生に「蔵には独特の音響効果がある。何か演奏してみたら?」と勧められ、貯蔵タンクが並ぶ蔵で室内楽コンサートを企画した。100人が集まり、音楽ホールとはひと味違う、酒蔵に響くクラシックの音色を堪能した。
さらに「島田の七夕に賑わいを復活させたい」という町の声に応え、七夕の日に静岡大学のジャズバンドを招いて酒蔵コンサートを開催。蔵を開放し、生ライブを楽しんでもらった後は、樽詰めの生酒を無料でふるまった。
ステージ設営も七夕飾りもすべて社員の手作り。最近ではテノール歌手の加藤信行さん、中鉢聡さん、ザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団首席ホルン奏者シュヴァイガー氏といった ビッグネームもやってくる。松永さんの「出演料は出せないけど酒はたっぷり飲ませるよ」が口説き文句だといい、アーティスト自身も酒蔵の空間に魅力を感じ、手弁当で参加するという。
聴衆は年々増えて今では400人を超え、蔵の中に入りきれない人が路上で演奏に耳を傾けるということも。「島田市はもともと音楽好きの市民が多く、静岡市に市民会館が出来る前は、県下で唯一NHK交響楽団の演奏会が島田市民会館で開かれていた。音楽が身近にあった街なんです」と松永さん。今年(2011年)で14回目を数える七夕酒蔵コンサートは、島田市の夏の風物詩になった。
蔵に入りきれない聴衆
NY三ツ星フレンチレストランの地酒パーティーをきっかけに
松永さんは日本酒の蔵元として島田の食文化振興にも努めている。1999年、ニューヨークの三ツ星フレンチレストランで開かれた日本酒パーティーに招待されたとき、「若竹鬼ころし」がフレンチ料理と見事にマッチし、NYの食通たちに喜ばれる姿に感激する。NYナンバーワンの呼び声高いワインソムリエとシェフが事前に島田までやってきて蔵できき酒するなど準備も万全だった。「海外で島田の地酒がこれだけのもてなしを受けているのに、自分たちは地元では何もしていない」と実感した松永さんは、帰国後、蔵に隣接する大井神社宮美殿の調理長と協働で【島田の食と地酒を楽しむ会】を企画した。
翌年からは酒米作りで縁のある島田市初倉地区の農家、大井川奥のヤマメ養殖業者にも声を掛け、食事の合間に生産者の苦労話や地域の自然の価値などを解説してもらうなど、地産地消をテーマにした食文化の会に発展した。5000円のチケットは受付直後に定員満員となり、今では抽選制にせざるをえないほどの人気ぶりだ。
親子で体験学習、「お米とお酒の学校」開催
2005年からは親子対象の食育活動【お米とお酒の学校】を始めた。初倉の農家の協力で、5月に酒米の田植えをし、9月に稲刈り、3月に酒蔵工場見学を行う。子どもたちは田植えや稲刈り時に農家から米作りや田んぼの生態系などを聞き、バケツにひと株ずつ稲を持ち帰る。田んぼには自分の名前の立て札が立っているので、下校途中に様子を見に行くことも。田植えの日は午後、かかしづくりの体験。稲刈りの日は島田市金谷の伝統の志戸呂焼き工房で茶碗やぐい飲みづくりの体験。お酒が完成する3月にはオリジナルラベルをデザインして酒瓶に貼る。そんな稲作体験が、親子のコミュニケーションづくり、地域農業や酒造り・陶芸等のモノづくり文化を学ぶ好機にもつながっている。
酒蔵2階の文化発信基地「若竹サロン」
本社2階フロアは、貸しギャラリーとして市民に開放している。ここで2カ月に1度のペースで文化交流会「若竹サロン」を開催し、地元で活躍する学識経験者、経済人、文化人等を講師に招いてさまざまなトークときき酒を楽しんでもらう。蔵を支えてくれた「若竹会」の伝統がそこに息づいている。ギャラリーは、若い陶芸家や書家たちの作品発表の場にも活用している。
これら事業は参加者から費用をとらないか、必要最小限の実費しかとらず、企画や運営はすべて松永さんと社員でまかなっている。「スポンサーをつけたり補助金をもらったりすると、いろいろ制約が出てくるから」と苦笑いする松永さんだが、会社の“持ち出し分”は広報活動の範疇をゆうに超えている。その原動力は、数々の催しを通して、地域住民から寄せられる「自分たちが住む町に誇りが持てる、ぜひ続けてほしい」という声。「酒蔵が地域に存在する意義もそこにあります」と力を込める。
私は亡き5代目・松永始郎翁がお達者な頃から蔵へちょくちょくお邪魔しており、1997年の毎日新聞『しずおか酒と人』では、始郎さんと6代目今朝二さんの父子エピソードを紹介しました。自分でも特に気に入っている記事なので、ぜひご一読ください。
◆http://ginjyo-shizuoka.jp/suzuki_15.html
大村屋酒造場6代目・松永今朝二会長
現在、大村屋酒造場は今朝二さんの娘婿・孝廣さんが7代目をしっかり継承しています。県内の蔵元で3代に亘っておつきあいさせていただいているのは、今のところこの蔵だけでしょうか。今年7月7日の七夕酒蔵コンサートは、孝廣さんの企画でスイングジャズの演奏を楽しみました。クラシックが続いた今朝二さんの時代とはひと味違う、陽気でワクワクのノリが新鮮でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杜氏も世代交代しています。長年蔵を支えた歴代南部杜氏の薫陶を受けた社員の日比野哲さんが杜氏を継承しました。日比野さんは県内の蔵元では初めて、大学院の新卒入社で酒造り職人になった逸材です。日比野さんが醸した若竹純米大吟醸誉富士は、本コラム第9回「あまい金賞」(こちら)でも紹介したとおり、全国の舞台で、静岡県の酒の存在感を見事に示してくれました。
◆「あまい金賞」 http://sakazuki.eshizuoka.jp/e1070245.html
七夕酒蔵コンサートに集まった400人の市民に無料で振舞われた酒は、縁起のよい樽酒と、若い後継者を象徴するように新発売された誉富士60%精米の特別純米「鬼乙女」。ピンクボトルは春に発売された火入れバージョン、ブルーボトルは夏に発売する生酒バージョンです。この先、秋には冷やおろし、冬には新酒しぼりたてと、四季に合わせたバージョンで楽しませてくれます。
こんなふうに、松永孝廣さん、日比野哲さんと、外から入ってきた“新しい血”が、伝統蔵の活かし方をブレることなく前進させています。それは、ホテルマン出身の今朝二さんの“人間力”が、保守的な蔵の風土や、地域との関わり方・付き合い方に柔軟性を持たせた成果に相違ありません。酒造りの現場でも、職人同士のチームワークが大事であるように、一軒の酒蔵の暖簾を守っていくにも、血脈を超えた人と人の相互理解と結束力が必要なんですね。
七夕酒蔵コンサートを、社員総出で手作り準備し、継続させている大村屋酒造場には、理想の酒造りを示す「和醸良酒」という言葉がしっくりくるようです。地元に酒蔵があるっていいなあって、つくづく思います。
◆大村屋酒造場 公式サイト http://www.oomuraya.jp/
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年07月12日
第12回 開かれた酒蔵
今回も世界文化遺産に登録された富士山お膝元の酒蔵を紹介しましょう。
富士山本宮富士宮浅間大社の西側、県道414号線沿いにたたずむ風格ある酒蔵。『高砂』の醸造元・富士高砂酒造です。

創業は江戸文政年間(1820年代)というから、かれこれ200年近い老舗ですが、2006年に経営者が交代し、2011年10月には母屋をリニューアル。観光客や団体客を受け入れる街中の“開かれた蔵”に生まれ変わりました。
私は16年前、創業者一族の山中滋雄さんが社長に就任し、創業当時の社名『山中正吉商店』から現社名『富士高砂酒造』に変わった1997年に、静岡アウトドアガイドの連載で紹介しています。
高砂-酒造りの原点としてこだわる山廃仕込み
山中正吉商店という旧社名は、創業者の名で、初代正吉は滋賀県蒲生郡日野町出身の近江商人。近江日野商人は江戸時代、漆器、売薬、呉服などを行商し、街道沿いに店舗を設けて酒、味噌、醤油の製造も手掛けていた。日野町にある山中本家は、近江商人の生き様を描いた映画『天秤のうた』のモデルとなり、撮影にも使われた旧家である。
5代目山中宣三氏がまとめた『醸造家銘々伝』(醸協1993掲載)によると、初代正吉が酒造業を始めたのは文政年間(1820年代)。正吉が東海道を行商する途中、吉原宿の旅籠で同宿の旅人が急病になり、献身的に介護した。この旅人が能登松波出身の杜氏だったことから縁が生じ、天間村(現富士宮市)で酒造りを始めたという。酒造場は天保2年(1831)に富士山本宮浅間大社の門前に移ったが、蔵へは創業以来、能登から杜氏が招かれ、一貫して伝統を守り伝えている。
創業からして能登杜氏なくしては成り立たない蔵ではあるが、当主山中家の能登流儀に対する信頼は170年以上経た現在も変わらない。現杜氏の吹上弘芳さんも18歳のときから半世紀近くこの蔵に勤めている。
酒は人間にとって融通の利かない自然醗酵物であり、厳しい寒期、故郷を遠く離れ、寝食いとわず従事する。当主と蔵人がいい関係でなければ、けっしていい仕事はできない。同じ流派や一人の杜氏が長く勤める蔵の酒は、それだけで、確かな味の証しになっていると、まず思う。
『高砂』という酒銘は、天保年間に相次いだ飢饉で世情不安の折、天下泰平、夫婦和合、健康長寿を願って命名されたという。縁起のよさから婚礼の席でよく飲まれる。披露宴に招かれ、知らず知らずにこの酒のまろやかな酔いに浸った人も少なくないだろう。幸せな宴席で飲まれる酒も、また幸せである。
代々、山中正吉は滋賀県日野町に籍を置き、富士宮の蔵は番頭と能登杜氏に任せてあったが、宣三氏が昭和30年、株式法人に改組し、自ら陣頭指揮をとるようになった。そして今年(1997年)5月、本家から分離し、社名を『富士高砂酒造』とし、息子の滋雄さんが6代目を継いだ。近江商人の蔵から卒業し、富士山おひざもとの酒蔵として独り立ちしたわけである。
昭和33年生まれの山中滋雄さんは10年間、醗酵メーカーの営業職を務め、全国3000社のバイオ・食品関連会社を訪ね歩いた経験から、「我が蔵の伝統は何か」がつねに念頭にあった。高砂の代表銘柄のひとつ『山廃(やまはい)仕込み』は、これを体現したものである。
山廃仕込みを簡単に説明しておこう。
“一麹(こうじ)、二酛(もと)、三造り”といわれる酒造りの極意で、二番目に重要な酛(酒母)とは、優良な酵母を純粋培養させる培地の役割を持ち、邪魔な雑菌を殺すため多量の乳酸を含んでいる。
戦後は市販の乳酸を添加させて造る「速醸酛(そくじょうもと)」が主流となったが、それ以前は、蒸米・麹・水に、ツメと呼ばれる木片を混ぜ、櫂ですり潰し、タンクに移して温度をゆっくり上げ、乳酸を自然に醗酵させていた。これが「生酛(きもと)造り」である。
櫂ですり潰す作業は“山卸(やまおろし)”と呼ばれ、真冬の深夜、3~4時間おきに行う重労働だったが、明治末期、麹を水に浸しておき、そこに蒸米を加えるだけで糖化が進む水麹が開発され、山卸の代用になることも解明された。これを「山卸廃止酛=山廃酛」といい、低温で時間をかけて乳酸醗酵させるため、微生物の複雑な動きにより、多様な香りが生成され、濃厚な酒に仕上がる。これが本当に米と米麹と水だけで造られた飲み物かと思うほど深い味わいで、素材(米)の持つ旨味が存分に活かされた酒といえる。高砂ではこれを酒造りの原点とした。
「山廃酒は、一般に酸の強い重い酒になりますが、うちでは静岡酵母NEW-5という酸生成の低い酵母を使い、口当たりよく仕上げています。一般の山廃酒とも、他の静岡酒とも差別化がとれ、存分に個性が打ち出せていると思います」と山中社長。濃厚で辛い酒は、過醗酵させて米のデンプンの旨味をほとんどアルコールにしてしまうが、高砂の山廃は、米の旨味、アルコールとのバランス、舌触りなどを総合的に判断し、醗酵温度や時間を設定した緻密な造りが施されている。このような手間のかかる酒を安定供給するため、高砂では一貫して杜氏が弟子を育て、後継者にしてきた。「やはり最後は人です。伝統とは人づくりだと思います」と社長も明言する。
(静岡アウトドアガイドVol.17 『静岡の地酒を楽しむ(11)』1997年9月発行 より抜粋)
山中滋雄さんは、静岡酵母で低酸の山廃酒を造ったり、静岡県が開発した新しい酵母、新しい酒米、新しい仕込み方法にもいち早く取り組む“挑戦する蔵元”でした。これも、信頼する能登杜氏の吹上さんがいて、自分の高校の後輩で、吹上さんに弟子入りさせた副杜氏・小野浩二さんが製造部門をしっかり支えていたからこそ。
そんな山中さんが、諸事情によって経営から退いた2006年、吹上さんが急死するという悲運が重なりました。「人生にはこういうこともあるんだよ、真弓さん・・・」と呟いた山中滋雄さんの表情は、今も忘れられませんが、一方で、急遽杜氏に昇格した小野さんの肩に掛かったプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
山中-吹上時代、蔵へ頻繁に出入りしていた私は、小野さんのことを気に掛けながらもしばらく足が遠のいていたのですが、先月、富士山の世界文化遺産登録の取材で富士宮市役所文化財担当課を訪ねたとき、「高砂さんの蔵には、富士山下山仏があるんですよ」と聞いて、ハタと思い出しました。帰宅して久しぶりに『静岡アウトドアガイド』を引っ張り出してみたら、ちゃんと写真に撮って紹介しているんですね。
「壱号蔵の中二階に、薬師如来5体と鉄鋳地蔵菩薩3体が祀られている。もともと富士山頂の薬師堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈で破却されるところ、山中家2代目当主正吉が引き取って蔵に安置した」。

富士山頂の薬師堂から下山したみほとけたち
そこで、あらためて小野さんに連絡をとり、リニューアルした蔵を初めて訪ねました。
現杜氏の小野浩二さんは、私が『静岡アウトドアガイド』の記事を書いた1997年、36歳で中途入社し、吹上さんのもと、杜氏見習いとして修業を積んできました。前職は大手スーパーのインテリア部門バイヤー。職人の工房に出入りするうちに、モノを横から横へ流して買い叩くだけより、モノを造る醍醐味、思いを込めたモノが売れる喜びを天職にしたいと思い始め、知人が勤めていた高砂の門を叩き、偶然、社長が高校の先輩だと判って入社。最初に山中さんから飲ませてもらった山廃の酒に感動し、吹上さんに弟子入りしてからは、「日本酒は世界一うまい醸造酒だ!」と手応えを持つまでになりました。
吹上さん急死直後の山廃仕込みでは、「それまで麹づくりと酛づくりは杜氏の補佐役だったので、独りで全責任を負うことに正直、青くなった」そうですが、自然に乳酸を取り込む難しさと格闘しながら、少しずつ自己コントロールできるようになったそうです。
一方で、師匠の吹上さんからは、つねづね「杜氏は表に出るな、蔵元を陰で支えよ」と言われてきた小野さん。経営方針が変わり、蔵を一般に開放して見学者を内部に入れ、自分も表に出て説明や接客サービスをすることには、当然、複雑な思いもあったと思われます。

富士高砂酒造の見学コース
半世紀以上も蔵を支えた名杜氏の跡を継ぐプレッシャー、自分の酒造りを確立する時間との闘い、製造に100%没頭できない環境への不安感・・・経営者が杜氏になった蔵元杜氏よりも、その重圧はるかに大きいと想像しますが、久しぶりにお会いした小野さんの表情には、切り立つ険しいピークをひとつ超えたような穏やかさが垣間見えました。

杜氏の小野浩二さん。師匠吹上さんと労苦を共にした事務所で
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高砂では長年、業者向けの内覧会を開催し、経営が変わってからは仕込み繁忙期の冬に蔵開きを行っています。次第にご近所や地域住民から“おたくは何をやっている会社なの?”“私らも入れるの?”と聞かれるようになり、「隣人の方々から、“何をやっているのかわからない”と思われるぐらいなら、きちんとした体制で開放するほうがベター」と考え始め、今では「造り手として、エンドユーザーから正直な声を聞くのは貴重な勉強になる」と前向きに取り組めるようになりました。
若い営業社員も、店頭に並べた山廃酒に「“杜氏お勧めセット”ってキャッチコピーを入れていいですか?」と提案するようになったとか。女性や観光客や外国人ツアー客を意識したデザインの瓶やラベルが並び、近寄りづらかったご近所の皆さんも、蔵との距離はグッと縮まったことでしょう。

若手社員が「杜氏お勧め」とPRする山廃純米・純米吟醸セット
なにより、世界遺産・富士山の仕込み水で醸した地酒を、その場で飲んだり買ったり見学できる蔵が、世界遺産の街のど真ん中にあるというのは話題性大。それだけに、新たな経営陣が背負った看板は、より大きく重くなったと思うし、小野さんには、いつ飲んでも安定した酒質をキープしてもらいたい。「観光地に名酒なし」と揶揄する酒通にも、ガツンと存在感を示して欲しいのです。
私がそんな、口幅ったいことを言うまでもなく、小野さんは、「こういう環境の蔵でも、静岡県清酒鑑評会でつねに上位入賞できるレベルでありたい」と真摯に答えてくれました。『薬師蔵』と改名された壱号蔵の中二階に安置された富士山下山仏を、仕込みに入る前に必ず拝むという小野さん。「仏さまになった吹上さんが、蔵のどこかに居る気がします」と背筋を整える姿に、私も思わず、あたりを見回してから仏像に合掌しました。

富士山下山仏を拝む小野さん
富士山から下りてきたお薬師さまは、江戸中期頃の作とのことですが、状態はすこぶる良好で、実に美しいお姿。まさか酒蔵の守り神になるとは思われなかったでしょうが、富士山頂も、酒の仕込み蔵も、穢れなき“聖域”であることは間違いありません。
開かれた山、開かれた蔵にも、人智のおよばない何かが御座すことを、忘れてはいけませんね。
* 富士高砂酒造 公式サイト http://www.fuji-takasago.com/
* 『高砂・夏祭り』 2013年7月27日(土) 14時~20時
2011年から開催する夏の蔵開き。よさこい踊りや富士宮グルメの屋台で盛り上がります。入場無料。
富士山本宮富士宮浅間大社の西側、県道414号線沿いにたたずむ風格ある酒蔵。『高砂』の醸造元・富士高砂酒造です。
創業は江戸文政年間(1820年代)というから、かれこれ200年近い老舗ですが、2006年に経営者が交代し、2011年10月には母屋をリニューアル。観光客や団体客を受け入れる街中の“開かれた蔵”に生まれ変わりました。
私は16年前、創業者一族の山中滋雄さんが社長に就任し、創業当時の社名『山中正吉商店』から現社名『富士高砂酒造』に変わった1997年に、静岡アウトドアガイドの連載で紹介しています。
高砂-酒造りの原点としてこだわる山廃仕込み
山中正吉商店という旧社名は、創業者の名で、初代正吉は滋賀県蒲生郡日野町出身の近江商人。近江日野商人は江戸時代、漆器、売薬、呉服などを行商し、街道沿いに店舗を設けて酒、味噌、醤油の製造も手掛けていた。日野町にある山中本家は、近江商人の生き様を描いた映画『天秤のうた』のモデルとなり、撮影にも使われた旧家である。
5代目山中宣三氏がまとめた『醸造家銘々伝』(醸協1993掲載)によると、初代正吉が酒造業を始めたのは文政年間(1820年代)。正吉が東海道を行商する途中、吉原宿の旅籠で同宿の旅人が急病になり、献身的に介護した。この旅人が能登松波出身の杜氏だったことから縁が生じ、天間村(現富士宮市)で酒造りを始めたという。酒造場は天保2年(1831)に富士山本宮浅間大社の門前に移ったが、蔵へは創業以来、能登から杜氏が招かれ、一貫して伝統を守り伝えている。
創業からして能登杜氏なくしては成り立たない蔵ではあるが、当主山中家の能登流儀に対する信頼は170年以上経た現在も変わらない。現杜氏の吹上弘芳さんも18歳のときから半世紀近くこの蔵に勤めている。
酒は人間にとって融通の利かない自然醗酵物であり、厳しい寒期、故郷を遠く離れ、寝食いとわず従事する。当主と蔵人がいい関係でなければ、けっしていい仕事はできない。同じ流派や一人の杜氏が長く勤める蔵の酒は、それだけで、確かな味の証しになっていると、まず思う。
『高砂』という酒銘は、天保年間に相次いだ飢饉で世情不安の折、天下泰平、夫婦和合、健康長寿を願って命名されたという。縁起のよさから婚礼の席でよく飲まれる。披露宴に招かれ、知らず知らずにこの酒のまろやかな酔いに浸った人も少なくないだろう。幸せな宴席で飲まれる酒も、また幸せである。
代々、山中正吉は滋賀県日野町に籍を置き、富士宮の蔵は番頭と能登杜氏に任せてあったが、宣三氏が昭和30年、株式法人に改組し、自ら陣頭指揮をとるようになった。そして今年(1997年)5月、本家から分離し、社名を『富士高砂酒造』とし、息子の滋雄さんが6代目を継いだ。近江商人の蔵から卒業し、富士山おひざもとの酒蔵として独り立ちしたわけである。
昭和33年生まれの山中滋雄さんは10年間、醗酵メーカーの営業職を務め、全国3000社のバイオ・食品関連会社を訪ね歩いた経験から、「我が蔵の伝統は何か」がつねに念頭にあった。高砂の代表銘柄のひとつ『山廃(やまはい)仕込み』は、これを体現したものである。
山廃仕込みを簡単に説明しておこう。
“一麹(こうじ)、二酛(もと)、三造り”といわれる酒造りの極意で、二番目に重要な酛(酒母)とは、優良な酵母を純粋培養させる培地の役割を持ち、邪魔な雑菌を殺すため多量の乳酸を含んでいる。
戦後は市販の乳酸を添加させて造る「速醸酛(そくじょうもと)」が主流となったが、それ以前は、蒸米・麹・水に、ツメと呼ばれる木片を混ぜ、櫂ですり潰し、タンクに移して温度をゆっくり上げ、乳酸を自然に醗酵させていた。これが「生酛(きもと)造り」である。
櫂ですり潰す作業は“山卸(やまおろし)”と呼ばれ、真冬の深夜、3~4時間おきに行う重労働だったが、明治末期、麹を水に浸しておき、そこに蒸米を加えるだけで糖化が進む水麹が開発され、山卸の代用になることも解明された。これを「山卸廃止酛=山廃酛」といい、低温で時間をかけて乳酸醗酵させるため、微生物の複雑な動きにより、多様な香りが生成され、濃厚な酒に仕上がる。これが本当に米と米麹と水だけで造られた飲み物かと思うほど深い味わいで、素材(米)の持つ旨味が存分に活かされた酒といえる。高砂ではこれを酒造りの原点とした。
「山廃酒は、一般に酸の強い重い酒になりますが、うちでは静岡酵母NEW-5という酸生成の低い酵母を使い、口当たりよく仕上げています。一般の山廃酒とも、他の静岡酒とも差別化がとれ、存分に個性が打ち出せていると思います」と山中社長。濃厚で辛い酒は、過醗酵させて米のデンプンの旨味をほとんどアルコールにしてしまうが、高砂の山廃は、米の旨味、アルコールとのバランス、舌触りなどを総合的に判断し、醗酵温度や時間を設定した緻密な造りが施されている。このような手間のかかる酒を安定供給するため、高砂では一貫して杜氏が弟子を育て、後継者にしてきた。「やはり最後は人です。伝統とは人づくりだと思います」と社長も明言する。
(静岡アウトドアガイドVol.17 『静岡の地酒を楽しむ(11)』1997年9月発行 より抜粋)
山中滋雄さんは、静岡酵母で低酸の山廃酒を造ったり、静岡県が開発した新しい酵母、新しい酒米、新しい仕込み方法にもいち早く取り組む“挑戦する蔵元”でした。これも、信頼する能登杜氏の吹上さんがいて、自分の高校の後輩で、吹上さんに弟子入りさせた副杜氏・小野浩二さんが製造部門をしっかり支えていたからこそ。
そんな山中さんが、諸事情によって経営から退いた2006年、吹上さんが急死するという悲運が重なりました。「人生にはこういうこともあるんだよ、真弓さん・・・」と呟いた山中滋雄さんの表情は、今も忘れられませんが、一方で、急遽杜氏に昇格した小野さんの肩に掛かったプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
山中-吹上時代、蔵へ頻繁に出入りしていた私は、小野さんのことを気に掛けながらもしばらく足が遠のいていたのですが、先月、富士山の世界文化遺産登録の取材で富士宮市役所文化財担当課を訪ねたとき、「高砂さんの蔵には、富士山下山仏があるんですよ」と聞いて、ハタと思い出しました。帰宅して久しぶりに『静岡アウトドアガイド』を引っ張り出してみたら、ちゃんと写真に撮って紹介しているんですね。
「壱号蔵の中二階に、薬師如来5体と鉄鋳地蔵菩薩3体が祀られている。もともと富士山頂の薬師堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈で破却されるところ、山中家2代目当主正吉が引き取って蔵に安置した」。
富士山頂の薬師堂から下山したみほとけたち
そこで、あらためて小野さんに連絡をとり、リニューアルした蔵を初めて訪ねました。
現杜氏の小野浩二さんは、私が『静岡アウトドアガイド』の記事を書いた1997年、36歳で中途入社し、吹上さんのもと、杜氏見習いとして修業を積んできました。前職は大手スーパーのインテリア部門バイヤー。職人の工房に出入りするうちに、モノを横から横へ流して買い叩くだけより、モノを造る醍醐味、思いを込めたモノが売れる喜びを天職にしたいと思い始め、知人が勤めていた高砂の門を叩き、偶然、社長が高校の先輩だと判って入社。最初に山中さんから飲ませてもらった山廃の酒に感動し、吹上さんに弟子入りしてからは、「日本酒は世界一うまい醸造酒だ!」と手応えを持つまでになりました。
吹上さん急死直後の山廃仕込みでは、「それまで麹づくりと酛づくりは杜氏の補佐役だったので、独りで全責任を負うことに正直、青くなった」そうですが、自然に乳酸を取り込む難しさと格闘しながら、少しずつ自己コントロールできるようになったそうです。
一方で、師匠の吹上さんからは、つねづね「杜氏は表に出るな、蔵元を陰で支えよ」と言われてきた小野さん。経営方針が変わり、蔵を一般に開放して見学者を内部に入れ、自分も表に出て説明や接客サービスをすることには、当然、複雑な思いもあったと思われます。
富士高砂酒造の見学コース
半世紀以上も蔵を支えた名杜氏の跡を継ぐプレッシャー、自分の酒造りを確立する時間との闘い、製造に100%没頭できない環境への不安感・・・経営者が杜氏になった蔵元杜氏よりも、その重圧はるかに大きいと想像しますが、久しぶりにお会いした小野さんの表情には、切り立つ険しいピークをひとつ超えたような穏やかさが垣間見えました。
杜氏の小野浩二さん。師匠吹上さんと労苦を共にした事務所で
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高砂では長年、業者向けの内覧会を開催し、経営が変わってからは仕込み繁忙期の冬に蔵開きを行っています。次第にご近所や地域住民から“おたくは何をやっている会社なの?”“私らも入れるの?”と聞かれるようになり、「隣人の方々から、“何をやっているのかわからない”と思われるぐらいなら、きちんとした体制で開放するほうがベター」と考え始め、今では「造り手として、エンドユーザーから正直な声を聞くのは貴重な勉強になる」と前向きに取り組めるようになりました。
若い営業社員も、店頭に並べた山廃酒に「“杜氏お勧めセット”ってキャッチコピーを入れていいですか?」と提案するようになったとか。女性や観光客や外国人ツアー客を意識したデザインの瓶やラベルが並び、近寄りづらかったご近所の皆さんも、蔵との距離はグッと縮まったことでしょう。
若手社員が「杜氏お勧め」とPRする山廃純米・純米吟醸セット
なにより、世界遺産・富士山の仕込み水で醸した地酒を、その場で飲んだり買ったり見学できる蔵が、世界遺産の街のど真ん中にあるというのは話題性大。それだけに、新たな経営陣が背負った看板は、より大きく重くなったと思うし、小野さんには、いつ飲んでも安定した酒質をキープしてもらいたい。「観光地に名酒なし」と揶揄する酒通にも、ガツンと存在感を示して欲しいのです。
私がそんな、口幅ったいことを言うまでもなく、小野さんは、「こういう環境の蔵でも、静岡県清酒鑑評会でつねに上位入賞できるレベルでありたい」と真摯に答えてくれました。『薬師蔵』と改名された壱号蔵の中二階に安置された富士山下山仏を、仕込みに入る前に必ず拝むという小野さん。「仏さまになった吹上さんが、蔵のどこかに居る気がします」と背筋を整える姿に、私も思わず、あたりを見回してから仏像に合掌しました。

富士山下山仏を拝む小野さん
富士山から下りてきたお薬師さまは、江戸中期頃の作とのことですが、状態はすこぶる良好で、実に美しいお姿。まさか酒蔵の守り神になるとは思われなかったでしょうが、富士山頂も、酒の仕込み蔵も、穢れなき“聖域”であることは間違いありません。
開かれた山、開かれた蔵にも、人智のおよばない何かが御座すことを、忘れてはいけませんね。
* 富士高砂酒造 公式サイト http://www.fuji-takasago.com/
* 『高砂・夏祭り』 2013年7月27日(土) 14時~20時
2011年から開催する夏の蔵開き。よさこい踊りや富士宮グルメの屋台で盛り上がります。入場無料。
Posted by 日刊いーしず at 12:00