2013年07月12日
第12回 開かれた酒蔵
今回も世界文化遺産に登録された富士山お膝元の酒蔵を紹介しましょう。
富士山本宮富士宮浅間大社の西側、県道414号線沿いにたたずむ風格ある酒蔵。『高砂』の醸造元・富士高砂酒造です。

創業は江戸文政年間(1820年代)というから、かれこれ200年近い老舗ですが、2006年に経営者が交代し、2011年10月には母屋をリニューアル。観光客や団体客を受け入れる街中の“開かれた蔵”に生まれ変わりました。
私は16年前、創業者一族の山中滋雄さんが社長に就任し、創業当時の社名『山中正吉商店』から現社名『富士高砂酒造』に変わった1997年に、静岡アウトドアガイドの連載で紹介しています。
高砂-酒造りの原点としてこだわる山廃仕込み
山中正吉商店という旧社名は、創業者の名で、初代正吉は滋賀県蒲生郡日野町出身の近江商人。近江日野商人は江戸時代、漆器、売薬、呉服などを行商し、街道沿いに店舗を設けて酒、味噌、醤油の製造も手掛けていた。日野町にある山中本家は、近江商人の生き様を描いた映画『天秤のうた』のモデルとなり、撮影にも使われた旧家である。
5代目山中宣三氏がまとめた『醸造家銘々伝』(醸協1993掲載)によると、初代正吉が酒造業を始めたのは文政年間(1820年代)。正吉が東海道を行商する途中、吉原宿の旅籠で同宿の旅人が急病になり、献身的に介護した。この旅人が能登松波出身の杜氏だったことから縁が生じ、天間村(現富士宮市)で酒造りを始めたという。酒造場は天保2年(1831)に富士山本宮浅間大社の門前に移ったが、蔵へは創業以来、能登から杜氏が招かれ、一貫して伝統を守り伝えている。
創業からして能登杜氏なくしては成り立たない蔵ではあるが、当主山中家の能登流儀に対する信頼は170年以上経た現在も変わらない。現杜氏の吹上弘芳さんも18歳のときから半世紀近くこの蔵に勤めている。
酒は人間にとって融通の利かない自然醗酵物であり、厳しい寒期、故郷を遠く離れ、寝食いとわず従事する。当主と蔵人がいい関係でなければ、けっしていい仕事はできない。同じ流派や一人の杜氏が長く勤める蔵の酒は、それだけで、確かな味の証しになっていると、まず思う。
『高砂』という酒銘は、天保年間に相次いだ飢饉で世情不安の折、天下泰平、夫婦和合、健康長寿を願って命名されたという。縁起のよさから婚礼の席でよく飲まれる。披露宴に招かれ、知らず知らずにこの酒のまろやかな酔いに浸った人も少なくないだろう。幸せな宴席で飲まれる酒も、また幸せである。
代々、山中正吉は滋賀県日野町に籍を置き、富士宮の蔵は番頭と能登杜氏に任せてあったが、宣三氏が昭和30年、株式法人に改組し、自ら陣頭指揮をとるようになった。そして今年(1997年)5月、本家から分離し、社名を『富士高砂酒造』とし、息子の滋雄さんが6代目を継いだ。近江商人の蔵から卒業し、富士山おひざもとの酒蔵として独り立ちしたわけである。
昭和33年生まれの山中滋雄さんは10年間、醗酵メーカーの営業職を務め、全国3000社のバイオ・食品関連会社を訪ね歩いた経験から、「我が蔵の伝統は何か」がつねに念頭にあった。高砂の代表銘柄のひとつ『山廃(やまはい)仕込み』は、これを体現したものである。
山廃仕込みを簡単に説明しておこう。
“一麹(こうじ)、二酛(もと)、三造り”といわれる酒造りの極意で、二番目に重要な酛(酒母)とは、優良な酵母を純粋培養させる培地の役割を持ち、邪魔な雑菌を殺すため多量の乳酸を含んでいる。
戦後は市販の乳酸を添加させて造る「速醸酛(そくじょうもと)」が主流となったが、それ以前は、蒸米・麹・水に、ツメと呼ばれる木片を混ぜ、櫂ですり潰し、タンクに移して温度をゆっくり上げ、乳酸を自然に醗酵させていた。これが「生酛(きもと)造り」である。
櫂ですり潰す作業は“山卸(やまおろし)”と呼ばれ、真冬の深夜、3~4時間おきに行う重労働だったが、明治末期、麹を水に浸しておき、そこに蒸米を加えるだけで糖化が進む水麹が開発され、山卸の代用になることも解明された。これを「山卸廃止酛=山廃酛」といい、低温で時間をかけて乳酸醗酵させるため、微生物の複雑な動きにより、多様な香りが生成され、濃厚な酒に仕上がる。これが本当に米と米麹と水だけで造られた飲み物かと思うほど深い味わいで、素材(米)の持つ旨味が存分に活かされた酒といえる。高砂ではこれを酒造りの原点とした。
「山廃酒は、一般に酸の強い重い酒になりますが、うちでは静岡酵母NEW-5という酸生成の低い酵母を使い、口当たりよく仕上げています。一般の山廃酒とも、他の静岡酒とも差別化がとれ、存分に個性が打ち出せていると思います」と山中社長。濃厚で辛い酒は、過醗酵させて米のデンプンの旨味をほとんどアルコールにしてしまうが、高砂の山廃は、米の旨味、アルコールとのバランス、舌触りなどを総合的に判断し、醗酵温度や時間を設定した緻密な造りが施されている。このような手間のかかる酒を安定供給するため、高砂では一貫して杜氏が弟子を育て、後継者にしてきた。「やはり最後は人です。伝統とは人づくりだと思います」と社長も明言する。
(静岡アウトドアガイドVol.17 『静岡の地酒を楽しむ(11)』1997年9月発行 より抜粋)
山中滋雄さんは、静岡酵母で低酸の山廃酒を造ったり、静岡県が開発した新しい酵母、新しい酒米、新しい仕込み方法にもいち早く取り組む“挑戦する蔵元”でした。これも、信頼する能登杜氏の吹上さんがいて、自分の高校の後輩で、吹上さんに弟子入りさせた副杜氏・小野浩二さんが製造部門をしっかり支えていたからこそ。
そんな山中さんが、諸事情によって経営から退いた2006年、吹上さんが急死するという悲運が重なりました。「人生にはこういうこともあるんだよ、真弓さん・・・」と呟いた山中滋雄さんの表情は、今も忘れられませんが、一方で、急遽杜氏に昇格した小野さんの肩に掛かったプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
山中-吹上時代、蔵へ頻繁に出入りしていた私は、小野さんのことを気に掛けながらもしばらく足が遠のいていたのですが、先月、富士山の世界文化遺産登録の取材で富士宮市役所文化財担当課を訪ねたとき、「高砂さんの蔵には、富士山下山仏があるんですよ」と聞いて、ハタと思い出しました。帰宅して久しぶりに『静岡アウトドアガイド』を引っ張り出してみたら、ちゃんと写真に撮って紹介しているんですね。
「壱号蔵の中二階に、薬師如来5体と鉄鋳地蔵菩薩3体が祀られている。もともと富士山頂の薬師堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈で破却されるところ、山中家2代目当主正吉が引き取って蔵に安置した」。

富士山頂の薬師堂から下山したみほとけたち
そこで、あらためて小野さんに連絡をとり、リニューアルした蔵を初めて訪ねました。
現杜氏の小野浩二さんは、私が『静岡アウトドアガイド』の記事を書いた1997年、36歳で中途入社し、吹上さんのもと、杜氏見習いとして修業を積んできました。前職は大手スーパーのインテリア部門バイヤー。職人の工房に出入りするうちに、モノを横から横へ流して買い叩くだけより、モノを造る醍醐味、思いを込めたモノが売れる喜びを天職にしたいと思い始め、知人が勤めていた高砂の門を叩き、偶然、社長が高校の先輩だと判って入社。最初に山中さんから飲ませてもらった山廃の酒に感動し、吹上さんに弟子入りしてからは、「日本酒は世界一うまい醸造酒だ!」と手応えを持つまでになりました。
吹上さん急死直後の山廃仕込みでは、「それまで麹づくりと酛づくりは杜氏の補佐役だったので、独りで全責任を負うことに正直、青くなった」そうですが、自然に乳酸を取り込む難しさと格闘しながら、少しずつ自己コントロールできるようになったそうです。
一方で、師匠の吹上さんからは、つねづね「杜氏は表に出るな、蔵元を陰で支えよ」と言われてきた小野さん。経営方針が変わり、蔵を一般に開放して見学者を内部に入れ、自分も表に出て説明や接客サービスをすることには、当然、複雑な思いもあったと思われます。

富士高砂酒造の見学コース
半世紀以上も蔵を支えた名杜氏の跡を継ぐプレッシャー、自分の酒造りを確立する時間との闘い、製造に100%没頭できない環境への不安感・・・経営者が杜氏になった蔵元杜氏よりも、その重圧はるかに大きいと想像しますが、久しぶりにお会いした小野さんの表情には、切り立つ険しいピークをひとつ超えたような穏やかさが垣間見えました。

杜氏の小野浩二さん。師匠吹上さんと労苦を共にした事務所で
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高砂では長年、業者向けの内覧会を開催し、経営が変わってからは仕込み繁忙期の冬に蔵開きを行っています。次第にご近所や地域住民から“おたくは何をやっている会社なの?”“私らも入れるの?”と聞かれるようになり、「隣人の方々から、“何をやっているのかわからない”と思われるぐらいなら、きちんとした体制で開放するほうがベター」と考え始め、今では「造り手として、エンドユーザーから正直な声を聞くのは貴重な勉強になる」と前向きに取り組めるようになりました。
若い営業社員も、店頭に並べた山廃酒に「“杜氏お勧めセット”ってキャッチコピーを入れていいですか?」と提案するようになったとか。女性や観光客や外国人ツアー客を意識したデザインの瓶やラベルが並び、近寄りづらかったご近所の皆さんも、蔵との距離はグッと縮まったことでしょう。

若手社員が「杜氏お勧め」とPRする山廃純米・純米吟醸セット
なにより、世界遺産・富士山の仕込み水で醸した地酒を、その場で飲んだり買ったり見学できる蔵が、世界遺産の街のど真ん中にあるというのは話題性大。それだけに、新たな経営陣が背負った看板は、より大きく重くなったと思うし、小野さんには、いつ飲んでも安定した酒質をキープしてもらいたい。「観光地に名酒なし」と揶揄する酒通にも、ガツンと存在感を示して欲しいのです。
私がそんな、口幅ったいことを言うまでもなく、小野さんは、「こういう環境の蔵でも、静岡県清酒鑑評会でつねに上位入賞できるレベルでありたい」と真摯に答えてくれました。『薬師蔵』と改名された壱号蔵の中二階に安置された富士山下山仏を、仕込みに入る前に必ず拝むという小野さん。「仏さまになった吹上さんが、蔵のどこかに居る気がします」と背筋を整える姿に、私も思わず、あたりを見回してから仏像に合掌しました。

富士山下山仏を拝む小野さん
富士山から下りてきたお薬師さまは、江戸中期頃の作とのことですが、状態はすこぶる良好で、実に美しいお姿。まさか酒蔵の守り神になるとは思われなかったでしょうが、富士山頂も、酒の仕込み蔵も、穢れなき“聖域”であることは間違いありません。
開かれた山、開かれた蔵にも、人智のおよばない何かが御座すことを、忘れてはいけませんね。
* 富士高砂酒造 公式サイト http://www.fuji-takasago.com/
* 『高砂・夏祭り』 2013年7月27日(土) 14時~20時
2011年から開催する夏の蔵開き。よさこい踊りや富士宮グルメの屋台で盛り上がります。入場無料。
富士山本宮富士宮浅間大社の西側、県道414号線沿いにたたずむ風格ある酒蔵。『高砂』の醸造元・富士高砂酒造です。
創業は江戸文政年間(1820年代)というから、かれこれ200年近い老舗ですが、2006年に経営者が交代し、2011年10月には母屋をリニューアル。観光客や団体客を受け入れる街中の“開かれた蔵”に生まれ変わりました。
私は16年前、創業者一族の山中滋雄さんが社長に就任し、創業当時の社名『山中正吉商店』から現社名『富士高砂酒造』に変わった1997年に、静岡アウトドアガイドの連載で紹介しています。
高砂-酒造りの原点としてこだわる山廃仕込み
山中正吉商店という旧社名は、創業者の名で、初代正吉は滋賀県蒲生郡日野町出身の近江商人。近江日野商人は江戸時代、漆器、売薬、呉服などを行商し、街道沿いに店舗を設けて酒、味噌、醤油の製造も手掛けていた。日野町にある山中本家は、近江商人の生き様を描いた映画『天秤のうた』のモデルとなり、撮影にも使われた旧家である。
5代目山中宣三氏がまとめた『醸造家銘々伝』(醸協1993掲載)によると、初代正吉が酒造業を始めたのは文政年間(1820年代)。正吉が東海道を行商する途中、吉原宿の旅籠で同宿の旅人が急病になり、献身的に介護した。この旅人が能登松波出身の杜氏だったことから縁が生じ、天間村(現富士宮市)で酒造りを始めたという。酒造場は天保2年(1831)に富士山本宮浅間大社の門前に移ったが、蔵へは創業以来、能登から杜氏が招かれ、一貫して伝統を守り伝えている。
創業からして能登杜氏なくしては成り立たない蔵ではあるが、当主山中家の能登流儀に対する信頼は170年以上経た現在も変わらない。現杜氏の吹上弘芳さんも18歳のときから半世紀近くこの蔵に勤めている。
酒は人間にとって融通の利かない自然醗酵物であり、厳しい寒期、故郷を遠く離れ、寝食いとわず従事する。当主と蔵人がいい関係でなければ、けっしていい仕事はできない。同じ流派や一人の杜氏が長く勤める蔵の酒は、それだけで、確かな味の証しになっていると、まず思う。
『高砂』という酒銘は、天保年間に相次いだ飢饉で世情不安の折、天下泰平、夫婦和合、健康長寿を願って命名されたという。縁起のよさから婚礼の席でよく飲まれる。披露宴に招かれ、知らず知らずにこの酒のまろやかな酔いに浸った人も少なくないだろう。幸せな宴席で飲まれる酒も、また幸せである。
代々、山中正吉は滋賀県日野町に籍を置き、富士宮の蔵は番頭と能登杜氏に任せてあったが、宣三氏が昭和30年、株式法人に改組し、自ら陣頭指揮をとるようになった。そして今年(1997年)5月、本家から分離し、社名を『富士高砂酒造』とし、息子の滋雄さんが6代目を継いだ。近江商人の蔵から卒業し、富士山おひざもとの酒蔵として独り立ちしたわけである。
昭和33年生まれの山中滋雄さんは10年間、醗酵メーカーの営業職を務め、全国3000社のバイオ・食品関連会社を訪ね歩いた経験から、「我が蔵の伝統は何か」がつねに念頭にあった。高砂の代表銘柄のひとつ『山廃(やまはい)仕込み』は、これを体現したものである。
山廃仕込みを簡単に説明しておこう。
“一麹(こうじ)、二酛(もと)、三造り”といわれる酒造りの極意で、二番目に重要な酛(酒母)とは、優良な酵母を純粋培養させる培地の役割を持ち、邪魔な雑菌を殺すため多量の乳酸を含んでいる。
戦後は市販の乳酸を添加させて造る「速醸酛(そくじょうもと)」が主流となったが、それ以前は、蒸米・麹・水に、ツメと呼ばれる木片を混ぜ、櫂ですり潰し、タンクに移して温度をゆっくり上げ、乳酸を自然に醗酵させていた。これが「生酛(きもと)造り」である。
櫂ですり潰す作業は“山卸(やまおろし)”と呼ばれ、真冬の深夜、3~4時間おきに行う重労働だったが、明治末期、麹を水に浸しておき、そこに蒸米を加えるだけで糖化が進む水麹が開発され、山卸の代用になることも解明された。これを「山卸廃止酛=山廃酛」といい、低温で時間をかけて乳酸醗酵させるため、微生物の複雑な動きにより、多様な香りが生成され、濃厚な酒に仕上がる。これが本当に米と米麹と水だけで造られた飲み物かと思うほど深い味わいで、素材(米)の持つ旨味が存分に活かされた酒といえる。高砂ではこれを酒造りの原点とした。
「山廃酒は、一般に酸の強い重い酒になりますが、うちでは静岡酵母NEW-5という酸生成の低い酵母を使い、口当たりよく仕上げています。一般の山廃酒とも、他の静岡酒とも差別化がとれ、存分に個性が打ち出せていると思います」と山中社長。濃厚で辛い酒は、過醗酵させて米のデンプンの旨味をほとんどアルコールにしてしまうが、高砂の山廃は、米の旨味、アルコールとのバランス、舌触りなどを総合的に判断し、醗酵温度や時間を設定した緻密な造りが施されている。このような手間のかかる酒を安定供給するため、高砂では一貫して杜氏が弟子を育て、後継者にしてきた。「やはり最後は人です。伝統とは人づくりだと思います」と社長も明言する。
(静岡アウトドアガイドVol.17 『静岡の地酒を楽しむ(11)』1997年9月発行 より抜粋)
山中滋雄さんは、静岡酵母で低酸の山廃酒を造ったり、静岡県が開発した新しい酵母、新しい酒米、新しい仕込み方法にもいち早く取り組む“挑戦する蔵元”でした。これも、信頼する能登杜氏の吹上さんがいて、自分の高校の後輩で、吹上さんに弟子入りさせた副杜氏・小野浩二さんが製造部門をしっかり支えていたからこそ。
そんな山中さんが、諸事情によって経営から退いた2006年、吹上さんが急死するという悲運が重なりました。「人生にはこういうこともあるんだよ、真弓さん・・・」と呟いた山中滋雄さんの表情は、今も忘れられませんが、一方で、急遽杜氏に昇格した小野さんの肩に掛かったプレッシャーは、いかばかりだったでしょう。
山中-吹上時代、蔵へ頻繁に出入りしていた私は、小野さんのことを気に掛けながらもしばらく足が遠のいていたのですが、先月、富士山の世界文化遺産登録の取材で富士宮市役所文化財担当課を訪ねたとき、「高砂さんの蔵には、富士山下山仏があるんですよ」と聞いて、ハタと思い出しました。帰宅して久しぶりに『静岡アウトドアガイド』を引っ張り出してみたら、ちゃんと写真に撮って紹介しているんですね。
「壱号蔵の中二階に、薬師如来5体と鉄鋳地蔵菩薩3体が祀られている。もともと富士山頂の薬師堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈で破却されるところ、山中家2代目当主正吉が引き取って蔵に安置した」。
富士山頂の薬師堂から下山したみほとけたち
そこで、あらためて小野さんに連絡をとり、リニューアルした蔵を初めて訪ねました。
現杜氏の小野浩二さんは、私が『静岡アウトドアガイド』の記事を書いた1997年、36歳で中途入社し、吹上さんのもと、杜氏見習いとして修業を積んできました。前職は大手スーパーのインテリア部門バイヤー。職人の工房に出入りするうちに、モノを横から横へ流して買い叩くだけより、モノを造る醍醐味、思いを込めたモノが売れる喜びを天職にしたいと思い始め、知人が勤めていた高砂の門を叩き、偶然、社長が高校の先輩だと判って入社。最初に山中さんから飲ませてもらった山廃の酒に感動し、吹上さんに弟子入りしてからは、「日本酒は世界一うまい醸造酒だ!」と手応えを持つまでになりました。
吹上さん急死直後の山廃仕込みでは、「それまで麹づくりと酛づくりは杜氏の補佐役だったので、独りで全責任を負うことに正直、青くなった」そうですが、自然に乳酸を取り込む難しさと格闘しながら、少しずつ自己コントロールできるようになったそうです。
一方で、師匠の吹上さんからは、つねづね「杜氏は表に出るな、蔵元を陰で支えよ」と言われてきた小野さん。経営方針が変わり、蔵を一般に開放して見学者を内部に入れ、自分も表に出て説明や接客サービスをすることには、当然、複雑な思いもあったと思われます。
富士高砂酒造の見学コース
半世紀以上も蔵を支えた名杜氏の跡を継ぐプレッシャー、自分の酒造りを確立する時間との闘い、製造に100%没頭できない環境への不安感・・・経営者が杜氏になった蔵元杜氏よりも、その重圧はるかに大きいと想像しますが、久しぶりにお会いした小野さんの表情には、切り立つ険しいピークをひとつ超えたような穏やかさが垣間見えました。
杜氏の小野浩二さん。師匠吹上さんと労苦を共にした事務所で
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高砂では長年、業者向けの内覧会を開催し、経営が変わってからは仕込み繁忙期の冬に蔵開きを行っています。次第にご近所や地域住民から“おたくは何をやっている会社なの?”“私らも入れるの?”と聞かれるようになり、「隣人の方々から、“何をやっているのかわからない”と思われるぐらいなら、きちんとした体制で開放するほうがベター」と考え始め、今では「造り手として、エンドユーザーから正直な声を聞くのは貴重な勉強になる」と前向きに取り組めるようになりました。
若い営業社員も、店頭に並べた山廃酒に「“杜氏お勧めセット”ってキャッチコピーを入れていいですか?」と提案するようになったとか。女性や観光客や外国人ツアー客を意識したデザインの瓶やラベルが並び、近寄りづらかったご近所の皆さんも、蔵との距離はグッと縮まったことでしょう。
若手社員が「杜氏お勧め」とPRする山廃純米・純米吟醸セット
なにより、世界遺産・富士山の仕込み水で醸した地酒を、その場で飲んだり買ったり見学できる蔵が、世界遺産の街のど真ん中にあるというのは話題性大。それだけに、新たな経営陣が背負った看板は、より大きく重くなったと思うし、小野さんには、いつ飲んでも安定した酒質をキープしてもらいたい。「観光地に名酒なし」と揶揄する酒通にも、ガツンと存在感を示して欲しいのです。
私がそんな、口幅ったいことを言うまでもなく、小野さんは、「こういう環境の蔵でも、静岡県清酒鑑評会でつねに上位入賞できるレベルでありたい」と真摯に答えてくれました。『薬師蔵』と改名された壱号蔵の中二階に安置された富士山下山仏を、仕込みに入る前に必ず拝むという小野さん。「仏さまになった吹上さんが、蔵のどこかに居る気がします」と背筋を整える姿に、私も思わず、あたりを見回してから仏像に合掌しました。

富士山下山仏を拝む小野さん
富士山から下りてきたお薬師さまは、江戸中期頃の作とのことですが、状態はすこぶる良好で、実に美しいお姿。まさか酒蔵の守り神になるとは思われなかったでしょうが、富士山頂も、酒の仕込み蔵も、穢れなき“聖域”であることは間違いありません。
開かれた山、開かれた蔵にも、人智のおよばない何かが御座すことを、忘れてはいけませんね。
* 富士高砂酒造 公式サイト http://www.fuji-takasago.com/
* 『高砂・夏祭り』 2013年7月27日(土) 14時~20時
2011年から開催する夏の蔵開き。よさこい踊りや富士宮グルメの屋台で盛り上がります。入場無料。
Posted by 日刊いーしず at 12:00