2013年11月15日
第20回 南部杜氏
先日来、ニュースでも伝えられたとおり、由比の地酒『正雪』の杜氏・山影純悦(やまかげじゅんえつ)さんが、2013年度の「現代の名工」に選ばれました。

麹のチェックをする山影純悦さん
「卓越した技能者=現代の名工」は1967年から始まった制度で、厚生労働省が工業技術、伝統工芸、料理など各分野で優れた業績を上げた技能者を、毎年全国で150人選んで表彰します。今回は、私が時々通う静岡市の中華料理店『桂花』の千葉良男シェフも選ばれました。自分のお気に入りのおいしいものを作ってくれる身近な職人さんが選ばれたって、なんだか晴れがましいですよね!
山影さんは昭和7年、岩手県花巻市生まれで、19歳から酒造りの世界に入り、29歳で南部杜氏資格試験に当時、最年少で合格しました。昭和57年から『正雪』の蔵元・神沢川酒造場(静岡市清水区由比)の杜氏を務め、81歳の今も現場監督と後進指導にあたっています。神沢川酒造場を訪ねた方はお分かりかと思いますが、事務所の天井から壁へ、所狭しと掲げられた数々の表彰状が、山影さんの技能の高さを物語っています。

神沢川酒造場の事務所
それだけではありません。単年雇用の杜氏が一つの蔵元に長く勤め、持ち前の技能を存分に発揮できるというのは、ほかならぬ、経営者と技術者のベストマッチングが成せる業。数々の賞は神沢川酒造場のオーナー望月家と山影さんの確かな信頼関係の証しでもあります。

「正雪」の蔵元・神沢川酒造場(清水区由比)の望月正隆社長
そして今回の「現代の名工」。実は以前、技能者の表彰制度について調べたことがあり、現代の名工に選ばれるには、当然ながら、同業界内での実績と推薦が不可欠だと知りました。杜氏さんでいえば、単に酒造りの名人というだけでなく、同業者組織(日本醸造協会、南部杜氏協会、静岡県杜氏研究会など)で世話役を厭わず、業界の発展のために力を尽くした方に、ということでしょうか。
職人さんにとって現場の外でのさまざまな人付き合いや交渉ごとというのは煩雑なもののように思えますが、長年『正雪』に勤め、静岡の事情をよく知る山影さんは、県内の他の蔵元が南部杜氏を雇用する際に人選や待遇面でのアドバイスを行うなど、面倒見の良さでも知られています。一方、私が20年余り通い続ける全国新酒鑑評会や県清酒鑑評会のきき酒会場では必ず姿をお見かけします。若い杜氏や蔵人に混じって真剣にきき酒する横顔には、いくつになっても酒質向上への探究心を持ち続ける熱い職人魂を感じたものでした。
今も懐かしく思い出されるのは、しずおか地酒研究会発足の2年目、1997年7月に企画した南部杜氏のふるさとツアー。山影さんが花巻温泉に静岡県の蔵に勤める南部杜氏さんを10人集めて歓迎の宴を開いてくれました。まだ研究会が出来たばかりで私の力不足もあって、こちらからは私の酒友7人しか参加できなかったのですが、杜氏さんたちは温かく歓迎してくれ、夜通し飲んで食べて歌い明かしました。

1997年7月、しずおか地酒研究会の南部杜氏ふるさとツアー
お恥ずかしい姿で写っていますが、この記念写真は、板垣馬太郎さん(若竹)、浅沼清輝さん(出世城)など鬼籍に入られた杜氏さんの顔も揃う大事なお宝ショット。翌日は山影さんと富山初雄さん(喜久醉)が石鳥谷の南部杜氏伝承館や宮沢賢治ゆかりの地を案内してくれました。浅沼さんがご自宅に招いて手作り漬物でもてなしてくださったことは忘れられません。
南部杜氏伝承館では、岩波映画製作の記録映画『南部杜氏』がリプレイ上映されていました。昭和62年(1987)に制作された作品で、大正~昭和頃の酒造りを、昭和62年当時の南部杜氏が再現しています。1987年といえば、静岡県では全国新酒鑑評会で入賞率日本一になり、静岡酵母や静岡流の吟醸造りが一躍注目を集めた年。10年後の1997年にこれを観た私も、どちらかといえば新しい酒造工学やバイオテクノロジーの技術に関心があり、このとき観た『南部杜氏』は、単に古い記録映画、という印象しか持てませんでした。
そんな自分が不思議なことに、さらに10年後の2007年、映画制作の仕事に携わり、その経験を活かして、静岡吟醸を醸す杜氏さんたちの姿を映像に残そうと酒の映画製作を始めたのです。今思うとずいぶん大胆ですが、『南部杜氏』のDVDを日本酒造組合中央会からお借りし、県内の蔵元さんや杜氏さんを集めて「岩波映画のような格調高い作品は作れないが、少しでも近づきたい」と熱弁をふるいました。
このとき、一緒に『南部杜氏』を観てもらったメンバーの中に、大村屋酒造場(島田市)の日比野哲さんがいました。彼は静岡大学大学院を卒業して新卒で入社し、南部杜氏講習会に通い、杜氏資格試験を受けて合格した社員杜氏さんです。『南部杜氏』を観たのはこのときが初めてだそうで、「ふるえるほど感動した、今夜は眠れそうにない」と興奮していました。自分が南部杜氏伝承館で初めて観たときとは違いすぎるリアクションに、職人=技能者だけが共有できる感性があるんだなあと、半ば、羨ましく思いました。
岩波映画『南部杜氏』は、この後、さらに思いもよらない縁を生みました。HPに紹介したところ、早稲田大学グリークラブOBから、「大阪シンフォニーホールで、南部杜氏の酒造り唄を合唱披露することになったので酒造りの映像を観てイメージをつかみたい」と相談の連絡が来たのです。2011年8月に行われた演奏会には私も駆けつけ、男声合唱の迫力と美声に圧倒されました。酒造りは地域産業であると同時に、芸術や文化の源泉として時代を超え、地域を越え、感動の輪を広げてくれるものだとしみじみ・・・。こちらに紹介していますので、ご覧ください。
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2011/08/post_2cf0.html
南部杜氏伝承館では郷土史家がまとめた『南部杜氏ものがたり』という本を入手しました。
同書によると、岩手県旧南部藩で酒造技術が勃興したきっかけは、全国にフットワークを持つ近江商人が盛岡城下で造り酒屋を始めたこと。中でも近江商人の村井・小野一族が、上方大阪から酒造技術者を招聘し、南部地酒の酒質向上に貢献したようです。
彼らは優秀な若手職人を京都や大阪に見習い研修に派遣し、一定期間の年季を終えて帰国した者には「酒造頭司」という称号を与えて優遇しました。これが時代を経て「南部頭司」となり、隣国の仙台領からも技術を乞われ、南部・仙台両藩の許可を得て出稼ぎ出国するようになりました。凶作の年には脱藩して仙台に逃れる農民が相次ぎ、南部藩ではこれを厳しく取り締まったそうですから、酒造り職人がいかに特別待遇だったかが想像できます。出稼ぎで身をたて、故郷で尊敬を集めた職人たちを、やがて「南部杜氏」と総称するようになった、というわけです。
同書では功績のあった名杜氏が何人か紹介されていますが、とりわけ心に残ったのは、明治末~大正~昭和に活躍した谷村久太郎さんです。谷村さんは26歳の若さで横沢酒造店の杜氏になり、配下に25人もの若い職人を抱えながら人心の掌握に努め、岩手県下の清酒鑑評会でも数々の賞に輝きました。
36歳で南部杜氏組合理事になり、37歳で周囲から乞われて新堀村の村会議員にトップ当選。大正14年には南部杜氏組合創立10周年を記念し、機関誌『トロリ会報』を発行しました。評判がよく、毎月発行となったのですが、5号目で廃刊の憂き目に。理由は、5号の巻頭に掲載した「わたしたちが機関誌を通して技量の練磨、知識の向上、会員の親睦を図ろうとすることを、快く思わない偏狭古陋な酒造家がいる。そうした一部の酒造家は、杜氏が袴姿で品評会などに出入りするのは気に食わぬ、第一、蔵働きが読書をするのは生意気だと仰る。まるで封建的な考えだ。わたしたちは酒造家各位と共存共栄の立場にあるが故に研鑚を怠ってはならない」の一文。これが岩手県下の酒造家から反感を買い、発行停止の圧力がかかったというのです。
谷村さんは理事職を辞して謹慎しますが、南部杜氏組合の蔵人たちからは彼を支持する声が根強く、3年後に理事に復帰し、その後、南部杜氏組合理事長を10年間務めました。昭和のはじめ、農村不況が深刻な時期には、地元の産業組合専務理事として地域を支え、戦後は新堀村長を務めるまでに。酒造家が町長や村長を務める例は数多く聞きますが、杜氏が農政や村政で手腕をふるったというのはあまり聞きません。
こういう人のことを、「職人らしくない」「政治が好きなんだろう」と揶揄する人もいるかもしれませんが、雑音を承知で酒造業や地域のために矢面に立つというのは、心根に利他の精神を持たねば務まらないと思います。杜氏さんが皆、自分の酒造りや雇用のことだけを考えていたら、南部杜氏が今のように日本の酒造業を支える杜氏集団として生き残ったんだろうか、と想像すると、山影さんの「現代の名工」受賞の価値も一層重く感じられるのです。
私が取り組むドキュメンタリー映画『吟醸王国しずおか』は作品の方向性や資金面で壁にあたっており、制作中断状態ですが、酒造りの世界に関心を持つ人々に「眠れそうもない」「飲まずにいられない」刺激やクオリティを目指し、山影さんのように情熱を枯らすことなく頑張ろうと思っています。
山影純悦さん、本当におめでとうございました。
<参考文献>
「南部杜氏ものがたり~辛苦を超えた蔵人たち」 藤原正造著/博光出版(平成7年)

麹のチェックをする山影純悦さん
「卓越した技能者=現代の名工」は1967年から始まった制度で、厚生労働省が工業技術、伝統工芸、料理など各分野で優れた業績を上げた技能者を、毎年全国で150人選んで表彰します。今回は、私が時々通う静岡市の中華料理店『桂花』の千葉良男シェフも選ばれました。自分のお気に入りのおいしいものを作ってくれる身近な職人さんが選ばれたって、なんだか晴れがましいですよね!
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山影さんは昭和7年、岩手県花巻市生まれで、19歳から酒造りの世界に入り、29歳で南部杜氏資格試験に当時、最年少で合格しました。昭和57年から『正雪』の蔵元・神沢川酒造場(静岡市清水区由比)の杜氏を務め、81歳の今も現場監督と後進指導にあたっています。神沢川酒造場を訪ねた方はお分かりかと思いますが、事務所の天井から壁へ、所狭しと掲げられた数々の表彰状が、山影さんの技能の高さを物語っています。
神沢川酒造場の事務所
それだけではありません。単年雇用の杜氏が一つの蔵元に長く勤め、持ち前の技能を存分に発揮できるというのは、ほかならぬ、経営者と技術者のベストマッチングが成せる業。数々の賞は神沢川酒造場のオーナー望月家と山影さんの確かな信頼関係の証しでもあります。
「正雪」の蔵元・神沢川酒造場(清水区由比)の望月正隆社長
そして今回の「現代の名工」。実は以前、技能者の表彰制度について調べたことがあり、現代の名工に選ばれるには、当然ながら、同業界内での実績と推薦が不可欠だと知りました。杜氏さんでいえば、単に酒造りの名人というだけでなく、同業者組織(日本醸造協会、南部杜氏協会、静岡県杜氏研究会など)で世話役を厭わず、業界の発展のために力を尽くした方に、ということでしょうか。
職人さんにとって現場の外でのさまざまな人付き合いや交渉ごとというのは煩雑なもののように思えますが、長年『正雪』に勤め、静岡の事情をよく知る山影さんは、県内の他の蔵元が南部杜氏を雇用する際に人選や待遇面でのアドバイスを行うなど、面倒見の良さでも知られています。一方、私が20年余り通い続ける全国新酒鑑評会や県清酒鑑評会のきき酒会場では必ず姿をお見かけします。若い杜氏や蔵人に混じって真剣にきき酒する横顔には、いくつになっても酒質向上への探究心を持ち続ける熱い職人魂を感じたものでした。
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今も懐かしく思い出されるのは、しずおか地酒研究会発足の2年目、1997年7月に企画した南部杜氏のふるさとツアー。山影さんが花巻温泉に静岡県の蔵に勤める南部杜氏さんを10人集めて歓迎の宴を開いてくれました。まだ研究会が出来たばかりで私の力不足もあって、こちらからは私の酒友7人しか参加できなかったのですが、杜氏さんたちは温かく歓迎してくれ、夜通し飲んで食べて歌い明かしました。

1997年7月、しずおか地酒研究会の南部杜氏ふるさとツアー
お恥ずかしい姿で写っていますが、この記念写真は、板垣馬太郎さん(若竹)、浅沼清輝さん(出世城)など鬼籍に入られた杜氏さんの顔も揃う大事なお宝ショット。翌日は山影さんと富山初雄さん(喜久醉)が石鳥谷の南部杜氏伝承館や宮沢賢治ゆかりの地を案内してくれました。浅沼さんがご自宅に招いて手作り漬物でもてなしてくださったことは忘れられません。
南部杜氏伝承館では、岩波映画製作の記録映画『南部杜氏』がリプレイ上映されていました。昭和62年(1987)に制作された作品で、大正~昭和頃の酒造りを、昭和62年当時の南部杜氏が再現しています。1987年といえば、静岡県では全国新酒鑑評会で入賞率日本一になり、静岡酵母や静岡流の吟醸造りが一躍注目を集めた年。10年後の1997年にこれを観た私も、どちらかといえば新しい酒造工学やバイオテクノロジーの技術に関心があり、このとき観た『南部杜氏』は、単に古い記録映画、という印象しか持てませんでした。
そんな自分が不思議なことに、さらに10年後の2007年、映画制作の仕事に携わり、その経験を活かして、静岡吟醸を醸す杜氏さんたちの姿を映像に残そうと酒の映画製作を始めたのです。今思うとずいぶん大胆ですが、『南部杜氏』のDVDを日本酒造組合中央会からお借りし、県内の蔵元さんや杜氏さんを集めて「岩波映画のような格調高い作品は作れないが、少しでも近づきたい」と熱弁をふるいました。
このとき、一緒に『南部杜氏』を観てもらったメンバーの中に、大村屋酒造場(島田市)の日比野哲さんがいました。彼は静岡大学大学院を卒業して新卒で入社し、南部杜氏講習会に通い、杜氏資格試験を受けて合格した社員杜氏さんです。『南部杜氏』を観たのはこのときが初めてだそうで、「ふるえるほど感動した、今夜は眠れそうにない」と興奮していました。自分が南部杜氏伝承館で初めて観たときとは違いすぎるリアクションに、職人=技能者だけが共有できる感性があるんだなあと、半ば、羨ましく思いました。
岩波映画『南部杜氏』は、この後、さらに思いもよらない縁を生みました。HPに紹介したところ、早稲田大学グリークラブOBから、「大阪シンフォニーホールで、南部杜氏の酒造り唄を合唱披露することになったので酒造りの映像を観てイメージをつかみたい」と相談の連絡が来たのです。2011年8月に行われた演奏会には私も駆けつけ、男声合唱の迫力と美声に圧倒されました。酒造りは地域産業であると同時に、芸術や文化の源泉として時代を超え、地域を越え、感動の輪を広げてくれるものだとしみじみ・・・。こちらに紹介していますので、ご覧ください。
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2011/08/post_2cf0.html
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南部杜氏伝承館では郷土史家がまとめた『南部杜氏ものがたり』という本を入手しました。
同書によると、岩手県旧南部藩で酒造技術が勃興したきっかけは、全国にフットワークを持つ近江商人が盛岡城下で造り酒屋を始めたこと。中でも近江商人の村井・小野一族が、上方大阪から酒造技術者を招聘し、南部地酒の酒質向上に貢献したようです。
彼らは優秀な若手職人を京都や大阪に見習い研修に派遣し、一定期間の年季を終えて帰国した者には「酒造頭司」という称号を与えて優遇しました。これが時代を経て「南部頭司」となり、隣国の仙台領からも技術を乞われ、南部・仙台両藩の許可を得て出稼ぎ出国するようになりました。凶作の年には脱藩して仙台に逃れる農民が相次ぎ、南部藩ではこれを厳しく取り締まったそうですから、酒造り職人がいかに特別待遇だったかが想像できます。出稼ぎで身をたて、故郷で尊敬を集めた職人たちを、やがて「南部杜氏」と総称するようになった、というわけです。
同書では功績のあった名杜氏が何人か紹介されていますが、とりわけ心に残ったのは、明治末~大正~昭和に活躍した谷村久太郎さんです。谷村さんは26歳の若さで横沢酒造店の杜氏になり、配下に25人もの若い職人を抱えながら人心の掌握に努め、岩手県下の清酒鑑評会でも数々の賞に輝きました。
36歳で南部杜氏組合理事になり、37歳で周囲から乞われて新堀村の村会議員にトップ当選。大正14年には南部杜氏組合創立10周年を記念し、機関誌『トロリ会報』を発行しました。評判がよく、毎月発行となったのですが、5号目で廃刊の憂き目に。理由は、5号の巻頭に掲載した「わたしたちが機関誌を通して技量の練磨、知識の向上、会員の親睦を図ろうとすることを、快く思わない偏狭古陋な酒造家がいる。そうした一部の酒造家は、杜氏が袴姿で品評会などに出入りするのは気に食わぬ、第一、蔵働きが読書をするのは生意気だと仰る。まるで封建的な考えだ。わたしたちは酒造家各位と共存共栄の立場にあるが故に研鑚を怠ってはならない」の一文。これが岩手県下の酒造家から反感を買い、発行停止の圧力がかかったというのです。
谷村さんは理事職を辞して謹慎しますが、南部杜氏組合の蔵人たちからは彼を支持する声が根強く、3年後に理事に復帰し、その後、南部杜氏組合理事長を10年間務めました。昭和のはじめ、農村不況が深刻な時期には、地元の産業組合専務理事として地域を支え、戦後は新堀村長を務めるまでに。酒造家が町長や村長を務める例は数多く聞きますが、杜氏が農政や村政で手腕をふるったというのはあまり聞きません。
こういう人のことを、「職人らしくない」「政治が好きなんだろう」と揶揄する人もいるかもしれませんが、雑音を承知で酒造業や地域のために矢面に立つというのは、心根に利他の精神を持たねば務まらないと思います。杜氏さんが皆、自分の酒造りや雇用のことだけを考えていたら、南部杜氏が今のように日本の酒造業を支える杜氏集団として生き残ったんだろうか、と想像すると、山影さんの「現代の名工」受賞の価値も一層重く感じられるのです。
私が取り組むドキュメンタリー映画『吟醸王国しずおか』は作品の方向性や資金面で壁にあたっており、制作中断状態ですが、酒造りの世界に関心を持つ人々に「眠れそうもない」「飲まずにいられない」刺激やクオリティを目指し、山影さんのように情熱を枯らすことなく頑張ろうと思っています。
山影純悦さん、本当におめでとうございました。
<参考文献>
「南部杜氏ものがたり~辛苦を超えた蔵人たち」 藤原正造著/博光出版(平成7年)
Posted by 日刊いーしず at 12:00