2013年03月01日
第4回 17歳の酒縁
3月1日はしずおか地酒研究会の17回目の誕生日です。人間でいえばセブンティーン、思春期盛りの高校生ですね。たぶん祝ってくれるヒトはいないと思うので(笑)、この場を借りてセルフ・ハッピーバースデーをさせてください。
静岡の酒の造り手・売り手・飲み手の交流を目指し、1996年3月1日に誕生したしずおか地酒研究会。きっかけは、前年の秋、静岡市立南部図書館の食文化講座を担当していた市の職員から「地酒を取り上げたい」と相談され、企画を請け負ったことでした。
先月、17年ぶりに静岡市役所から声をかけてもらって、静岡おでんフェアの協賛イベント・しずおか早春の楽市2013の会場内(葵スクエア)に、しずおか地酒研究会で燗酒ブース『暖杯!しずおか地酒屋台』を出店したのですが、担当者から「市庁内で、酒呑みのスズキさんって知っている人が多くてビックリしましたよ」と言われ、赤面したと同時に、17年前の発足当時のこと、その前年の食文化講座のことを懐かしく思い出しました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
静岡市立南部図書館の食文化講座『静岡の地酒』では、講師に、このお2人しかいないというビッグネーム、静岡県酒造組合専務理事(当時)で静岡酒の生き字引のような存在だった栗田覚一郎さん、『静岡酵母』の開発で知られる静岡県静岡工業技術センター(当時)の河村傳兵衛さんをお招きし、2回に分け、静岡酒の歩みから酵母開発秘話まで幅広く解説していただきました。

1995年11月 静岡市立南部図書館食文化講座「静岡の地酒」
お2人とも頑固なスペシャリストで、一般市民に合わせて話のレベルを手加減・調整するような方々ではありませんが、おかげさまで講座は大好評で、会場は定員オーバーの聴講者で熱気にあふれ、終了後は「もっと地酒の情報を」「カネをとっていいから続けてくれ」という声をいただきました。そこで、年末年始にいろいろ構想し、96年1月末には酒の取材でお世話になっていた関係者、知己のあるマスコミ人、文化事業担当者等に集まってもらって相談会をもうけ、3月1日、研究会の発足、と相成ったのです。
一般にお披露目する発会パーティーは、静岡県清酒鑑評会授賞式で酒造関係者が静岡市内に一堂に集まる日にあわせ、3月22日、静岡県男女共同参画センターあざれあ調理実習室で開きました。地域の伝統食を研究・伝承している静岡市生活改善グループ連絡協議会(農家の主婦の皆さん)が朝採り山野草を材料にした酒肴をその場で作ってくれて、県内蔵元の皆さんが新酒を持ち寄り、酒友たちがボランティアで受付や会場設営をしたホントの手作りパーティーでした。当時、まだ『地産地消』『地域資源』なんて言葉はありませんでしたが、あの日に集まった酒も食も人も、100%地元産の地域資源でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しずおか地酒研究会の当初のプログラムは、図書館講座の延長のような感じで、酒米の研究者、マーケティング専門家、酒の評論家等を招いての「地酒塾」や消費者代表によるシンポジウムなど。2年活動した後、当時、静岡新聞出版局にいらした平野斗紀子さんの尽力で、会員情報をベースにしたガイドブック『地酒をもう一杯』を静岡新聞社から出版しました。その後は“塾”なんて上から目線のお題目はやめて、フランクに楽しめる酒蔵巡りや居酒屋さんをはしごする“地酒サロン”に切り替え、不定期に続けています。栗田・河村両巨頭から「酒のことでカネもうけしようなんて、ゆめゆめ思うな」とクギをさされていたので、研究会はまったくの非営利活動。必要経費を参加費用としていただく形でやっています。
バブル崩壊以降のフリーランスライター稼業と併行しての活動は、決して楽ではありませんが、自分が運よく取材で出会えて感動した酒の味、造り手の精神を、多くの人に直に紹介し、感動を共有し合う・・・これは、もう、ライター稼業だけではできない経験です。発足間もない頃、『開運』の蔵元・土井清愰社長が、会の“効能”を「地元のいい酒を楽しい雰囲気で呑んでいると、隣に座った初対面の人が長年の親友のような気分になる。お茶やまんじゅうじゃこうはいかない」と評価してくださいましたが、地酒は人と人をつなげ、地域コミュニケーションを円滑に、そして実に豊かにしてくれるんですね。今では、会に参加していた売り手(酒販店や飲食店)の多くが、独自に酒の会やイベントを開くようになり、酒の業界の外から投じた“貧者の一灯”が少しずつ結実していくようでワクワクしています。
しずおか地酒研究会の発足当時の経緯については、こちらの記事もぜひご覧ください。
http://ginjyo-shizuoka.jp/suzuki_09.html
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、前述のとおり、私がしずおか地酒研究会をスタートさせたのが1996年3月1日。その前の日のことです。研究会の応援団のお一人、喜久醉(藤枝市上青島)の蔵元・青島秀夫社長のもとに若い農家が突然やってきました。今は、喜久醉の看板商品『純米大吟醸松下米』の米で知られる松下明弘さんです。4年前のある講演会で松下さん、喜久醉の杜氏で専務の青島孝さんと鼎談し、当時のことを語っています。講演録を再掲してみましょう。

1997年から毎年10月に発売している喜久酔松下米シリーズ
鈴木 ―私が「しずおか地酒研究会」の発会式を、「あざれあ」の会議室で行ったのは1996年3月1日でした。その前日か前々日に、松下さんは青島酒造に酒米のことを聞きたいと訪ねたんですよね?
松下 ―96年2月29日だから前日ですね。その3年前に親父がガンで亡くなり、後を継いで専業農家になろうと、いろいろな設備を直したり機械をそろえたりしていた頃でした。
海外青年協力隊に参加し、アフリカから帰ってきたとき、近所の酒屋で買った日本酒を呑んだらびっくりするほどうまかった。行く前に呑んでいた日本酒というのは、いわゆる大手の酒でひどい酔い方をしました。たまたま行った酒屋にいい地酒が置いてあったのがよかったんですが、いろいろな地酒を呑み比べてみて、一番気に入ったのが喜久醉だった。呑んで何もひっかかりがなく、体にスーッと溶け込んでいく美味しい酒だった。どうせ専業で米を作るならこういう酒の原料になるような米も作りたいと思いました。で、裏貼りを見たら、「なんだ、うちから一番近い酒蔵じゃないか」と気がついた。青島酒造(藤枝市上青島)とうちは(藤枝市青南町)は、もともと同じ村なんです。
帰国後はしばらく会社勤めをしながら親父の農業を手伝っていたんですが、親父が亡くなったことで専業農家になろうと腹をくくり、96年2月28日にそれまで勤めていた会社を辞め、翌3月から心機一転スタートだと決めていました。ところがこの年はうるう年で、2月29日まであることに気がつき、1日ぽっかり空いてしまった。で、一度酒蔵というところを見てみようと思い切って訪ねてみたんです。
鈴木 ―アポなしでフラッと訪ねたんですよね。後で青島酒造の奥さんから「いきなり変な子が来てビックリした」と聞きました(笑)。
松下 ―「今日から専業農家になるんですけど、酒米について教えてくれるところがわからないので、酒蔵へ行けば教えてくれるかなと思って来ました」と切り出しました。青島酒造の社長は仕事の手を休めて30~40分、酒米の話をひととおりしてくれました。
話の流れで、社長が「自分は旅行が好きでね」と言い、「最近どこに行ったんですか」と聞いたら「ケニアに行ってきたんだよ、アフリカが好きでね」と社長。私「じゃあキリマンジャロにも?」、社長「もちろん」、私「どこのルートから入りました?」、社長「なに、君、知っているの?行ったことあるの?」、私「アフリカに住んでました」、社長「!?」(笑)。
で、そこから2時間、延々アフリカの話で大盛り上がりでした。後から奥さんに聞いたんですが、社長が周囲に「アフリカに行ってきた」と話しても、誰も行ったことがないから想像がつかず、まともに聞いてくれる人がいなかったそうで、アフリカ話ができる相手がいきなり現われて、初めて会った相手とは思えないぐらい意気投合した、と喜んでいたそうです。
鈴木 ―そして翌日の3月1日、しずおか地酒研究会の発会式で、青島社長から「昨日、うちに来たばかりの変なやつだけど、面白いから連れて行く」と連絡をもらい、そこで初めて松下さんとお会いしました。
発会式で私は、会のスローガンを“造り手・売り手・飲み手の和”と掲げました。ビールやワインや焼酎は、造りの現場で職人の顔を気軽に見ることはできないけど、日本酒の蔵元は、昔は町内に1軒はあったぐらい、地域に溶け込んでいる存在で、造り手の顔がよく見える。ところが、国内はおろか静岡でも、地元で日本酒を造っていることを知らない人が多い。それはとてもモッタイナイ話だと思っていました。地域だからこそ、酒を造っている蔵元、紹介する小売店や飲食店、そして受け取る消費者である私たちが相互理解し、交流を広げる場ができると考えたのです。
そんな宣言をしたところ、松下さんが「米農家が入っていないのはおかしい」と口を挟んできた。昨日初めて酒蔵にやってきて、これから酒米づくりに挑戦しようという奴が、何を生意気なことを・・・とカチンと来ましたが(笑)、とにかく松下さんの初めての酒米づくり…しかも青島の社長から「どうせ作るなら一番難しい山田錦を作ってみろ、失敗しても自分がポケットマネーで買い取ってやる」と背を押されたと聞いて、それなら会の仲間で応援しようじゃないかということになり、何度も田んぼに通って田植えを手伝ったり、草取りしたり山田錦研究の先生を招いたりして、秋の稲刈りを迎えたのです。
ニューヨークで投資顧問の仕事をされていた孝さんが帰国したのは、その稲刈り直前の、96年10月初旬でしたね。家の近所の田んぼでおかしな連中が盛り上がっているのを見て、さぞかしビックリしたでしょう?(笑)。
青島 ―松下さんとうちの社長が初めて出会ってアフリカ話で盛り上がり、真弓さんがしずおか地酒研究会を作ったころ、自分はニューヨークでこのままでいいのかと悩み苦しんでいました(苦笑)。自分が大切にして行きたいと思うのはカネでは買えないものだと思い始めていた。松下さんが最終的に行きついたのは故郷の田んぼだったということと、同じ思いだったかも知れません。
ただ、すんなり実家の酒蔵へ戻ることを決めたわけではなくて、100年200年と長い年月をかけて生き残っていくモノづくりの世界・・・たとえば自然と携わる植林や森づくりみたいな仕事に憧れました。酒造りもそうなのかなと思いましたが、一度は拒否した世界だし、ニューヨークに渡った時は、「(家業から)逃げきった」とまで思ってましたから(苦笑)。
鈴木 ―確か、宮大工の仕事にも憧れたと聞きましたが?
青島 ―そう、職人の技が数百年経っても息づくようなモノづくりの世界ですよね。そんなとき、母親から「変わった農家の人が来たよ」「お父さんの心臓の具合がよくなくてね・・・」という手紙をもらい、改めて故郷で酒を造るという仕事を真正面から考えるようになりました。
思えば、自分の故郷には大切なものがたくさんある。酒造りに欠かせないも のはなんといっても良質の水ですね。
鈴木 ―先ほど観ていただいた『吟醸王国しずおか』パイロット版で、いくつかの酒蔵の米洗いのシーンを立て続けにつないでみたのですが、あんなに水をぜいたくに使える地域というのは実は貴重で、日本では、名水地といわれるところでも、水量が乏しいことが多いそうですね。
青島 ―その意味で、酒造りというのは、その土地のいい水を守り、農業を守ることにつながると気づきました。この仕事が、何百年という年月の間、酒に携わる多くの人々の知恵や技に支えられて成り立っていると思った時、自分の代で簡単に辞めてはいけないんじゃないかと。
現実的には、収入は10分の1ぐらいになるわけで、相応の葛藤はありましたが(苦笑)、帰ったのはちょうど松下さんの稲刈りの1週間ぐらい前でしたね。その直前、父に帰ると伝えたとき、最初は「ニューヨークで何か失敗していられなくなって逃げ帰ってくるのか」と反対されたんですよ(苦笑)。

1996年10月5日 松下さん(左)、青島さん(中央)と初めて呑んだ日

2010年8月 それぞれ貫禄?がついた3人
松下さんの米作り、青島さんの酒造りについては、例年10月の『喜久醉純米大吟醸松下米』の発売時にじっくりご紹介するとして、彼らとの不思議な出会いと、ともに歩んだ時間、交わした杯の数や深さが、しずおか地酒研究会のエネルギー源になっていたのは確かです。2人の活躍を見るにつけ、自分は彼らに恥ずかしくない仕事が出来ているだろうか・・・とわが身を振り返り、落ち込んだり励まされたりの毎日。栗田・河村両巨頭がしずおか地酒研究会を“出産”させてくれた産科医ならば、松下・青島コンビは、日頃の体調チェックをしてくれる、かかりつけ医のような存在かな(笑)。変な喩えでスミマセン。でもこういう同志が傍にいてくれたからこその17年なんです。
先月のしずおか地酒研究会・燗酒ブース『暖杯!しずおか地酒屋台』には、松下さんと平野さんが駆け付けて、一緒に地酒のプレゼンテーションをしてくれました。松下さんは17年前と変わらない、「どっから来るの?その自信」と呆れてしまうほど(苦笑)の、歯に衣着せぬ明快な物言い。心底嬉しくなりました。
燗酒ブースの出店協力してくれた長島酒店さん、丸河屋酒店さんとも長いつきあいです。酒縁というのは、大切に育てていけば、ほんとうに地域を支える強靭な力になるに違いない、とあらためて確信しました。

おでんフェアの協賛イベント「暖杯!しずおか地酒屋台」に助っ人で来て
くれた松下さん(左から2人目)、「たまらん」の平野さん(3人目)
それでも、しずおか地酒研究会は、まだ17歳。ほんとうの酒の価値を語れるオトナになるには、まだまだ修業が必要です。時代や状況が変わっても、新しい酒縁にワクワクする気持ちを忘れず、活動を続けていきたい、と思っています(長々、回顧話に終始しちゃってごめんなさい)。
◆松下×青島×スズキの鼎談はこちらをご参照ください。
『杯が乾くまで~見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値』
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2009/07/post_d7c2.html
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2009/07/post_6bbd.html
▼日本農業新聞に紹介されたしずおか地酒研究会発会式
静岡の酒の造り手・売り手・飲み手の交流を目指し、1996年3月1日に誕生したしずおか地酒研究会。きっかけは、前年の秋、静岡市立南部図書館の食文化講座を担当していた市の職員から「地酒を取り上げたい」と相談され、企画を請け負ったことでした。
先月、17年ぶりに静岡市役所から声をかけてもらって、静岡おでんフェアの協賛イベント・しずおか早春の楽市2013の会場内(葵スクエア)に、しずおか地酒研究会で燗酒ブース『暖杯!しずおか地酒屋台』を出店したのですが、担当者から「市庁内で、酒呑みのスズキさんって知っている人が多くてビックリしましたよ」と言われ、赤面したと同時に、17年前の発足当時のこと、その前年の食文化講座のことを懐かしく思い出しました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
静岡市立南部図書館の食文化講座『静岡の地酒』では、講師に、このお2人しかいないというビッグネーム、静岡県酒造組合専務理事(当時)で静岡酒の生き字引のような存在だった栗田覚一郎さん、『静岡酵母』の開発で知られる静岡県静岡工業技術センター(当時)の河村傳兵衛さんをお招きし、2回に分け、静岡酒の歩みから酵母開発秘話まで幅広く解説していただきました。

1995年11月 静岡市立南部図書館食文化講座「静岡の地酒」
お2人とも頑固なスペシャリストで、一般市民に合わせて話のレベルを手加減・調整するような方々ではありませんが、おかげさまで講座は大好評で、会場は定員オーバーの聴講者で熱気にあふれ、終了後は「もっと地酒の情報を」「カネをとっていいから続けてくれ」という声をいただきました。そこで、年末年始にいろいろ構想し、96年1月末には酒の取材でお世話になっていた関係者、知己のあるマスコミ人、文化事業担当者等に集まってもらって相談会をもうけ、3月1日、研究会の発足、と相成ったのです。
一般にお披露目する発会パーティーは、静岡県清酒鑑評会授賞式で酒造関係者が静岡市内に一堂に集まる日にあわせ、3月22日、静岡県男女共同参画センターあざれあ調理実習室で開きました。地域の伝統食を研究・伝承している静岡市生活改善グループ連絡協議会(農家の主婦の皆さん)が朝採り山野草を材料にした酒肴をその場で作ってくれて、県内蔵元の皆さんが新酒を持ち寄り、酒友たちがボランティアで受付や会場設営をしたホントの手作りパーティーでした。当時、まだ『地産地消』『地域資源』なんて言葉はありませんでしたが、あの日に集まった酒も食も人も、100%地元産の地域資源でした。
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しずおか地酒研究会の当初のプログラムは、図書館講座の延長のような感じで、酒米の研究者、マーケティング専門家、酒の評論家等を招いての「地酒塾」や消費者代表によるシンポジウムなど。2年活動した後、当時、静岡新聞出版局にいらした平野斗紀子さんの尽力で、会員情報をベースにしたガイドブック『地酒をもう一杯』を静岡新聞社から出版しました。その後は“塾”なんて上から目線のお題目はやめて、フランクに楽しめる酒蔵巡りや居酒屋さんをはしごする“地酒サロン”に切り替え、不定期に続けています。栗田・河村両巨頭から「酒のことでカネもうけしようなんて、ゆめゆめ思うな」とクギをさされていたので、研究会はまったくの非営利活動。必要経費を参加費用としていただく形でやっています。
バブル崩壊以降のフリーランスライター稼業と併行しての活動は、決して楽ではありませんが、自分が運よく取材で出会えて感動した酒の味、造り手の精神を、多くの人に直に紹介し、感動を共有し合う・・・これは、もう、ライター稼業だけではできない経験です。発足間もない頃、『開運』の蔵元・土井清愰社長が、会の“効能”を「地元のいい酒を楽しい雰囲気で呑んでいると、隣に座った初対面の人が長年の親友のような気分になる。お茶やまんじゅうじゃこうはいかない」と評価してくださいましたが、地酒は人と人をつなげ、地域コミュニケーションを円滑に、そして実に豊かにしてくれるんですね。今では、会に参加していた売り手(酒販店や飲食店)の多くが、独自に酒の会やイベントを開くようになり、酒の業界の外から投じた“貧者の一灯”が少しずつ結実していくようでワクワクしています。
しずおか地酒研究会の発足当時の経緯については、こちらの記事もぜひご覧ください。
http://ginjyo-shizuoka.jp/suzuki_09.html
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、前述のとおり、私がしずおか地酒研究会をスタートさせたのが1996年3月1日。その前の日のことです。研究会の応援団のお一人、喜久醉(藤枝市上青島)の蔵元・青島秀夫社長のもとに若い農家が突然やってきました。今は、喜久醉の看板商品『純米大吟醸松下米』の米で知られる松下明弘さんです。4年前のある講演会で松下さん、喜久醉の杜氏で専務の青島孝さんと鼎談し、当時のことを語っています。講演録を再掲してみましょう。

1997年から毎年10月に発売している喜久酔松下米シリーズ
鈴木 ―私が「しずおか地酒研究会」の発会式を、「あざれあ」の会議室で行ったのは1996年3月1日でした。その前日か前々日に、松下さんは青島酒造に酒米のことを聞きたいと訪ねたんですよね?
松下 ―96年2月29日だから前日ですね。その3年前に親父がガンで亡くなり、後を継いで専業農家になろうと、いろいろな設備を直したり機械をそろえたりしていた頃でした。
海外青年協力隊に参加し、アフリカから帰ってきたとき、近所の酒屋で買った日本酒を呑んだらびっくりするほどうまかった。行く前に呑んでいた日本酒というのは、いわゆる大手の酒でひどい酔い方をしました。たまたま行った酒屋にいい地酒が置いてあったのがよかったんですが、いろいろな地酒を呑み比べてみて、一番気に入ったのが喜久醉だった。呑んで何もひっかかりがなく、体にスーッと溶け込んでいく美味しい酒だった。どうせ専業で米を作るならこういう酒の原料になるような米も作りたいと思いました。で、裏貼りを見たら、「なんだ、うちから一番近い酒蔵じゃないか」と気がついた。青島酒造(藤枝市上青島)とうちは(藤枝市青南町)は、もともと同じ村なんです。
帰国後はしばらく会社勤めをしながら親父の農業を手伝っていたんですが、親父が亡くなったことで専業農家になろうと腹をくくり、96年2月28日にそれまで勤めていた会社を辞め、翌3月から心機一転スタートだと決めていました。ところがこの年はうるう年で、2月29日まであることに気がつき、1日ぽっかり空いてしまった。で、一度酒蔵というところを見てみようと思い切って訪ねてみたんです。
鈴木 ―アポなしでフラッと訪ねたんですよね。後で青島酒造の奥さんから「いきなり変な子が来てビックリした」と聞きました(笑)。
松下 ―「今日から専業農家になるんですけど、酒米について教えてくれるところがわからないので、酒蔵へ行けば教えてくれるかなと思って来ました」と切り出しました。青島酒造の社長は仕事の手を休めて30~40分、酒米の話をひととおりしてくれました。
話の流れで、社長が「自分は旅行が好きでね」と言い、「最近どこに行ったんですか」と聞いたら「ケニアに行ってきたんだよ、アフリカが好きでね」と社長。私「じゃあキリマンジャロにも?」、社長「もちろん」、私「どこのルートから入りました?」、社長「なに、君、知っているの?行ったことあるの?」、私「アフリカに住んでました」、社長「!?」(笑)。
で、そこから2時間、延々アフリカの話で大盛り上がりでした。後から奥さんに聞いたんですが、社長が周囲に「アフリカに行ってきた」と話しても、誰も行ったことがないから想像がつかず、まともに聞いてくれる人がいなかったそうで、アフリカ話ができる相手がいきなり現われて、初めて会った相手とは思えないぐらい意気投合した、と喜んでいたそうです。
鈴木 ―そして翌日の3月1日、しずおか地酒研究会の発会式で、青島社長から「昨日、うちに来たばかりの変なやつだけど、面白いから連れて行く」と連絡をもらい、そこで初めて松下さんとお会いしました。
発会式で私は、会のスローガンを“造り手・売り手・飲み手の和”と掲げました。ビールやワインや焼酎は、造りの現場で職人の顔を気軽に見ることはできないけど、日本酒の蔵元は、昔は町内に1軒はあったぐらい、地域に溶け込んでいる存在で、造り手の顔がよく見える。ところが、国内はおろか静岡でも、地元で日本酒を造っていることを知らない人が多い。それはとてもモッタイナイ話だと思っていました。地域だからこそ、酒を造っている蔵元、紹介する小売店や飲食店、そして受け取る消費者である私たちが相互理解し、交流を広げる場ができると考えたのです。
そんな宣言をしたところ、松下さんが「米農家が入っていないのはおかしい」と口を挟んできた。昨日初めて酒蔵にやってきて、これから酒米づくりに挑戦しようという奴が、何を生意気なことを・・・とカチンと来ましたが(笑)、とにかく松下さんの初めての酒米づくり…しかも青島の社長から「どうせ作るなら一番難しい山田錦を作ってみろ、失敗しても自分がポケットマネーで買い取ってやる」と背を押されたと聞いて、それなら会の仲間で応援しようじゃないかということになり、何度も田んぼに通って田植えを手伝ったり、草取りしたり山田錦研究の先生を招いたりして、秋の稲刈りを迎えたのです。
ニューヨークで投資顧問の仕事をされていた孝さんが帰国したのは、その稲刈り直前の、96年10月初旬でしたね。家の近所の田んぼでおかしな連中が盛り上がっているのを見て、さぞかしビックリしたでしょう?(笑)。
青島 ―松下さんとうちの社長が初めて出会ってアフリカ話で盛り上がり、真弓さんがしずおか地酒研究会を作ったころ、自分はニューヨークでこのままでいいのかと悩み苦しんでいました(苦笑)。自分が大切にして行きたいと思うのはカネでは買えないものだと思い始めていた。松下さんが最終的に行きついたのは故郷の田んぼだったということと、同じ思いだったかも知れません。
ただ、すんなり実家の酒蔵へ戻ることを決めたわけではなくて、100年200年と長い年月をかけて生き残っていくモノづくりの世界・・・たとえば自然と携わる植林や森づくりみたいな仕事に憧れました。酒造りもそうなのかなと思いましたが、一度は拒否した世界だし、ニューヨークに渡った時は、「(家業から)逃げきった」とまで思ってましたから(苦笑)。
鈴木 ―確か、宮大工の仕事にも憧れたと聞きましたが?
青島 ―そう、職人の技が数百年経っても息づくようなモノづくりの世界ですよね。そんなとき、母親から「変わった農家の人が来たよ」「お父さんの心臓の具合がよくなくてね・・・」という手紙をもらい、改めて故郷で酒を造るという仕事を真正面から考えるようになりました。
思えば、自分の故郷には大切なものがたくさんある。酒造りに欠かせないも のはなんといっても良質の水ですね。
鈴木 ―先ほど観ていただいた『吟醸王国しずおか』パイロット版で、いくつかの酒蔵の米洗いのシーンを立て続けにつないでみたのですが、あんなに水をぜいたくに使える地域というのは実は貴重で、日本では、名水地といわれるところでも、水量が乏しいことが多いそうですね。
青島 ―その意味で、酒造りというのは、その土地のいい水を守り、農業を守ることにつながると気づきました。この仕事が、何百年という年月の間、酒に携わる多くの人々の知恵や技に支えられて成り立っていると思った時、自分の代で簡単に辞めてはいけないんじゃないかと。
現実的には、収入は10分の1ぐらいになるわけで、相応の葛藤はありましたが(苦笑)、帰ったのはちょうど松下さんの稲刈りの1週間ぐらい前でしたね。その直前、父に帰ると伝えたとき、最初は「ニューヨークで何か失敗していられなくなって逃げ帰ってくるのか」と反対されたんですよ(苦笑)。

1996年10月5日 松下さん(左)、青島さん(中央)と初めて呑んだ日

2010年8月 それぞれ貫禄?がついた3人
松下さんの米作り、青島さんの酒造りについては、例年10月の『喜久醉純米大吟醸松下米』の発売時にじっくりご紹介するとして、彼らとの不思議な出会いと、ともに歩んだ時間、交わした杯の数や深さが、しずおか地酒研究会のエネルギー源になっていたのは確かです。2人の活躍を見るにつけ、自分は彼らに恥ずかしくない仕事が出来ているだろうか・・・とわが身を振り返り、落ち込んだり励まされたりの毎日。栗田・河村両巨頭がしずおか地酒研究会を“出産”させてくれた産科医ならば、松下・青島コンビは、日頃の体調チェックをしてくれる、かかりつけ医のような存在かな(笑)。変な喩えでスミマセン。でもこういう同志が傍にいてくれたからこその17年なんです。
先月のしずおか地酒研究会・燗酒ブース『暖杯!しずおか地酒屋台』には、松下さんと平野さんが駆け付けて、一緒に地酒のプレゼンテーションをしてくれました。松下さんは17年前と変わらない、「どっから来るの?その自信」と呆れてしまうほど(苦笑)の、歯に衣着せぬ明快な物言い。心底嬉しくなりました。
燗酒ブースの出店協力してくれた長島酒店さん、丸河屋酒店さんとも長いつきあいです。酒縁というのは、大切に育てていけば、ほんとうに地域を支える強靭な力になるに違いない、とあらためて確信しました。

おでんフェアの協賛イベント「暖杯!しずおか地酒屋台」に助っ人で来て
くれた松下さん(左から2人目)、「たまらん」の平野さん(3人目)
それでも、しずおか地酒研究会は、まだ17歳。ほんとうの酒の価値を語れるオトナになるには、まだまだ修業が必要です。時代や状況が変わっても、新しい酒縁にワクワクする気持ちを忘れず、活動を続けていきたい、と思っています(長々、回顧話に終始しちゃってごめんなさい)。
◆松下×青島×スズキの鼎談はこちらをご参照ください。
『杯が乾くまで~見直そう地のモノ・地のヒト・ふるさとの価値』
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2009/07/post_d7c2.html
http://mayumi-s-jizake.blogzine.jp/blog/2009/07/post_6bbd.html
▼日本農業新聞に紹介されたしずおか地酒研究会発会式

Posted by 日刊いーしず at 12:00